| 宿り木 by 近衛 遼 第八話 ひとつになりたくて 他人が聞いたら、そんな馬鹿なことがあるかと一笑に伏されそうな話が、得てして事実であったりする。 茉莉は夕飯の買い物をしながら、ため息をついた。 だれにも言えねえよな、こんなこと。 顔見知りの八百屋のおかみさんに、大根をまけてもらって買う。ついでに、白菜も。独り暮しの男が買うには、明らかに多い。おかみさんに「にいちゃん、もしかしていい人ができたのかい」などとからかわれ、茉莉はますます憂鬱になった。 おかみさんは、茉莉に年上の恋人ができて、その人に頼まれて買い物をしていると思っているらしい。 たしかに、年上だが。 ため息はさらに深くなる。 一瞬、その「年上の恋人」が男で、しかも「トラブルプレイヤー」だの「ロシアンルーレット」だの「二重人格」だのと評される規格外な人物で、そいつの桁外れの食欲(と、もうひとつの欲求)を満たすために自分がいかに苦労しているか、全部暴露したい衝動にかられる。が、それをまともに聞いてくれる人がいるかどうか、はなはだ疑問だ。 うっかりすると……いや、おそらくきっと確実に、こっちの方がアヤシイやつだと思われてしまう。そんなのはイヤだ。 このところ、だいぶ気温が下がってきたことだし、今夜は久しぶりに鍋にするかな。 そんなことを考えながら、茉莉は家路を急いだ。 さすがに付き合いが長くなってくると、冬威がいつやってくるかということも、だいたい予想がつくようになる。ふだんは三、四日ごと。長期の出張のあとなどは、二日三日続くこともあるが。 今回は通常モードだろうな。まったく、こんなことだけ勘がよくなっても、うれしくもなんともない。 心の中で愚痴りつつ白菜を洗っていると、案の定、芒洋とした声が玄関から聞こえた。 「こんばんはー」 手を拭きつつ、ドアを開ける。 「今日のおかずは、なーにかな?」 モスグリーンの瞳をくりくりさせながら、訊く。 「鍋料理ですよ。豚肉と白菜の」 「うわー、おいしそ〜」 にこにこと、冬威は卓袱台の前にすわった。 「ねえねえ、マリちゃん。オレ今日、昼ごはん食べるヒマなくってさー。すっごくおなかすいてるんだけど」 茉莉は背中がぞわりとするのを感じた。 この男は、ときおり常軌を逸した行動をとる。いつぞやは腹が減ったと言って茉莉にのしかかってきたのだ。そのときは、食欲と性欲がごっちゃになっていたらしい。 とりあえず、なにか食べるものはなかったっけ。買い置きの食材を探ったが、すぐに口に入るものはない。 仕方なく、茉莉は大根をずいっと冬威の眼前に差し出した。 「へっ?」 冬威は目を丸くした。 「オレ、大根まるかじりはやだよー」 「違いますよ。大根おろし、お願いできます?」 やさしく、このうえなく、やさしく言う。 「大根おろし?」 はじめて聞く言葉のように、冬威は聞き返した。 「ええ。じゃこおろしにするんですよ。鍋が炊けるまでのあいだ、これで繋ぐんです」 おろし金とボウルを差し出す。冬威はなにやら、不安げに茉莉の手元を見ている。なにやってんだ。早くしろ。 「篁さん?」 「あのー、大根おろしって、どうやるの?」 そんなことも知らないのかよ。 そう言いたいのを、なんとかこらえる。いつものこと。いつものこと。心の中で呪文を唱えながら。 茉莉は大根の皮をむいて、ボウルの上におろし金をセットした。 「こうやって前後に動かすと、ほら、大根が下に落ちるでしょ。これが大根おろしです」 懇切丁寧に説明して、大根を冬威に渡す。 「へーえ。おもしろいね〜」 新しいおもちゃを買ってもらった子供のような顔をして、冬威は大根をすりおろしはじめた。なんとも無器用な手付きである。バタフライナイフを扱うときとは雲泥の差だ。 やっぱり、仕事に関係すること以外はまったくダメなんだな。茉莉は嘆息した。が、それを口にしてはいけない。 この男は妙なところでプライドが高いので、うっかりしたことを言うと、あとが大変だ。焼き栗のときは散々な目に遭った。あんなことは、もうご免だ。 冬威が大根おろしと格闘しているあいだ、茉莉は白菜を切ったり、肉をあしらい鉢に盛り付けたりしていた。そして、鍋のだしが、ぐつぐつといいはじめたころ。 「あーっ!!」 冬威が、素っ頓狂な声を出した。 「どうしました?」 あわてて振り向く。 「マリちゃーん……」 情けない顔。 「はあ」 「皮、入っちゃった」 「へ?」 大根の皮はむいたはずだが。 「ほら、ここ……」 冬威は右手を掲げた。小指の横の皮がむけて、血が滲んでいる。 「……あんた、手まですりおろしたんですか?」 「大根おろしって、痛いんだね〜」 しみじみと、感想を述べる。茉莉はため息をつきながら、冬威の手当をした。 「あとはおれがやりますから、すわっててください」 冬威はしょんぼりと、卓袱台の前に腰をおろした。まったく、手間のかかる男だな。 大根おろしの続きをしようと、茉莉がおろし金に向かったとき、 「あのさー」 冬威が声をかけた。 「なにか?」 いくぶん、声に険が混じるのは仕方ない。 「皮、取らなくていいの?」 「あ……そうか」 茉莉は慌てて、ボウルの中を調べた。が、どうしても見つからない。もしかしたら、皮なんか入ってなかったのかもしれないし……。 そうは思ったが、万一ということもある。このまま生で食べて、ブドウ球菌で中毒になるのも嫌だ。 じゃこおろしは止めて、みぞれ鍋にするか。茉莉はメニューを変更した。とりあえず、熱湯消毒すれば大丈夫だろう。 十分後。卓袱台の上には、大根おろしが山ほど入ったみぞれ鍋がどん、と置かれた。 「いっただきまーす」 上機嫌で、冬威は箸を取った。茉莉も黙々と食べ始める。 しばらくたってから、冬威は含み笑いをしながらこう切り出した。 「ねえねえ、マリちゃん」 「はい」 「どっちに入ったかなーっ」 「なにが」 「オレの皮〜」 ぐっ、と茉莉はむせた。 「……知りませんよ、そんなこと」 余計なことを思い出させるんじゃねえっ! 心の中で罵倒する。 「でも、ちょーっと感動かも」 「感動?」 これのどこが、どのように感動すると言うんだ。茉莉の心の声も知らず、冬威はうっとりと箸を運ぶ。 「だって、マリちゃんがオレの皮、食べてくれたら、それって一心同体ってことだもーん」 ふざけんじゃねえっ!! 茉莉はガチャン、と取り鉢を置いた。んなもんで、感動するんじゃねえよ、馬鹿野郎! 脳ミソ、腐ってんじゃねえかっ?? 叫びたい……。 真剣に、そう思った。しかし、目の前でほくほくと鍋をつついている姿を見ては、そういうわけにもいかない。 つくづく、おれは厄介なやつに引っかかってしまった。これ以上、鍋に手をのばす気にもなれない。 茉莉はひたすら、炊き立てのごはんに漬物を乗せて口に運んだ。 とりあえず、なにか食べておかなくては。空腹のままで、この男と付き合うのは自殺行為だ。過去の経験からも、それは明らかだった。本当に、とことん情けない経験なのだが。 そして茉莉は、四杯目のおかわりをした。 (THE END) |