宿り木 by 近衛 遼




第七話 哀しき学習能力

 人間には、学習能力が備わっているはずだ。
 人間だけではなく、犬や猫や猿にだって、あるいは馬や牛や豚にだって、生きていくための知恵はあるし、当然、経験から学ぶことはあるはずなのだ。
 それなのに。
 菅原事務所の敏腕調査員にして外国の映画俳優のような整ったマスクを持つこの男は、またしても悲しいぐらいばかばかしい失敗をしてくれた。
「適当に、とお願いしたはずですけど」
 ボウルいっぱいに膨らんで、さらに流しの中に広がったワカメを見下ろして、茉莉は言った。
「だから、適当に……」
「したんですね」
「はい〜」
 楽しそうに、冬威は答えた。
 そうだ。自分は肝心なことを忘れていた。人間の脳には学習能力があるが、忘却の機能も備わっているんだ。
「こーんなに量が増えるなんて、乾物って面白いね〜」
 そういえば、ヒジキのときもこうやって山ほど水にもどしたっけ。そのうえあのときは「ヒジキってムシみたい」と爆弾発言をしてくれて、結局その後、茉莉は一度もヒジキを食べていない。
 このまま食べられなくなったら、どうしてくれるんだ。いや、べつに、食べなくても生きてはいけるが、わりと好きな食材だっただけに、なんとなく悔しい。
「これ、もう食べられるの?」
 冬威がうきうきとした口調で、訊いた。
「食べられますけど、そのままだと味気ないですよ。酢の物と味噌汁を作りますから、もう少し待っててください」
 ななめ向かいの家のおばさんからもらったおからの炒り煮を鉢に入れて、卓袱台の上に置く。とりあえず、これでつないでいてもらおう。
「うわあ、いい匂い〜。これもマリちゃんが作ったの?」
「いいえ。それは頂きもので……」
「えーっ、オレ、マリちゃんの作ったものがいい〜」
 言うと思った。
「火を入れて、味を直しておきました」
「あ、たったらいいや。いただきまーす」
 ほくほくと、箸をつける。
 実際は火を入れただけだが、そう言えば機嫌よく食べてくれる。まったく、こんな姑息な技を覚えた自分が情けない。まあ、ワザを使わないとイロイロ支障が出るんだから仕方ないと言えば仕方ないわけだが。
 茉莉はそう自分に言い聞かせて、調理を続けた。
「お待たせしました」
 味噌汁の鍋と、ワカメと蛸の酢の物が入った鉢が卓袱台の上に並んだ。どちらもかなり大きいので、それだけで卓の上はいっぱいになっている。ごはん茶碗と湯呑みを置けば、あとはもうスペースがない。
 ま、取り皿はなくてもいいか。どうせ、いつも茶碗片手に直箸で食べているんだし。
 茉莉はごはんをよそって、冬威に差し出した。
「はい、どうぞ」
「いっただきまーすっ」
 早速、酢の物の山を崩す。毎度のことながら、見る見るうちにその容積が減っていった。
「あの……篁さん」
「え、なに?」
「もう少し、ゆっくり食べた方がいいですよ」
「えー、だって、おいしいんだもん」
「そう言ってもらえるのはうれしいんですが、消化に悪いですから」
「大丈夫だよ〜。オレ、なんでも生でイケるもん」
「は?」
「ほらほら。前に言ったことあるでしょ。南の島に行ったときのこと。あンときはまだ携帯燃料持ってたからよかったけど、そーゆーのがないときには、カエルやウサギをそのまま皮むしって食べたことあるもん」
 ……またかよ。
 茉莉は肩を落とした。環境が人を作るとすれば、きっと冬威の消化器はサバイバル仕様でできているんだろう。
 こいつ、秘境を巡る旅番組のリポーターにでもなったら売れるかも。とことん不毛な考えが浮かぶ。
「……わかりました。好きなだけ、どうぞ」
 反論するのもばかばかしくなって、茉莉は黙々と自分のペースで箸を運んだ。
 結局、冬威は大鉢の酢の物の大半を食べて、いつものごとく卓袱台の前でごろりと横になってしまった。
「おなかがいっぱいで、うれしいな〜」
「よかったですね」
 いつものようにそう言って、後片付けをする。流し台の前で茶碗を洗っていると、突然、ガタン、となにかがぶつかったような音がした。
「篁さん?」
 振り向くと、冬威が体をくの字に曲げて、低い声でうなっていた。
「どうかしたんですか」
「……なんだか、腹が……」
「えっ……痛いんですか?」
 あわてて流し台の水を止めて、茉莉は卓袱台の横にひざをついた。
「おかしいな。当たるようなものは出してないと思うんだけど……」
「むかむかして、気持ち悪い〜」
「はあ?」
 それって、単に食いすぎたってことじゃないのか?
 こんにゃくとにんじんの入ったおからに、ワカメと蛸の酢の物、同じくワカメとじゃがいもの味噌汁。おせじにも消化にいいとは言いがたい。それを短時間で大量に摂取したのだから、胃に負担がかかったのだろう。
「ちょっと、量が多かったみたいですねえ」
 加減ってものがないのか、まったく。そう思いながらも、あくまでやさしくこう続ける。
「なにか薬でも飲みますか」
「飲んだら、治る?」
「すぐには無理でしょうけど、少しは楽になりますよ」
「薬はキライだよ」
「治らなくてもいいんですか?」
「いいもん」
 冬威は口を曲げて、横を向いた。強情だな。ほんとに、子供みたいだ。
 昔、腹をこわしたとき、よく母が煎じ薬を作ってくれた。苦くてまずくて飲みにくかったが、不思議とよく効いて、翌日にはすっかり治っていた。
 体を丸くして横たわっている冬威に毛布をかけて、茉莉はコンロの前に立った。やかんに乾燥させたセンブリと水を入れて、火を点ける。
 急なことなのでじっくり煎じている時間はないが、自分の経験上、これが食べすぎにはいちばん効く。
 しばらくして、部屋に独特の匂いが漂いはじめた。冬威はむっつりとした顔で、卓袱台の前にすわりなおした。
「なんだよ〜、この匂い」
「センブリです」
「センブリ?」
「薬草ですよ。胃腸の働きを整える効果があるんです」
 煎じたセンブリを湯呑みに注ぐ。
「どうぞ」
 卓袱台の上に湯呑みを置いた。冬威は湯呑みをじっと見下ろしていたが、やがてそれを、そろそろと口に運んだ。
「苦い〜」
「良薬口に苦しって言うでしょ」
「リョウヤク?」
「いい薬ってことです」
「よくないよ、こんなの。ぜんぜん効かないじゃん」
 薬を飲んだからといって、すぐに症状が治まるわけではない。ただ、これだけ苦い薬を飲んだのだからもう大丈夫だという暗示をかけて、症状を緩和させる効果は期待できる。
「おれも、飲みましょうか」
 茉莉は自分の湯呑みに煎じ薬を入れて、一気に飲んだ。苦い。のどがむずがゆくなるほどに。
 それを見た冬威も、湯呑みに残っていた分をのどに流し込んだ。ぎゅっと目を閉じ、なんとか嚥下する。
「これで、治るかな」
「ええ、たぶん。蒲団を敷きますから、少し待っててください」
「泊まっていっても、いいの?」
 断っても泊まるくせに。茉莉は苦笑して、頷いた。
「病人を追い出すわけにもいきませんからね」
 茉莉は奥の八畳間に入り、押入の戸を開けた。
 これが、甘かった。
 冬威は、とことんサバイバルな環境で仕事をしていたのだ。腹痛ぐらいで、こんなにおとなしくなるはずはなかったのに。
 蒲団に敷布をかけたところで、茉莉はその事実に気づいた。
「たっ……篁さんっ」
「なーに?」
「なにやってんです」
「なにって、せっかくマリちゃんが蒲団を敷いてくれたんだから……」
 冬威は茉莉の肩を掴んで敷布に押しつけていた。
「あんた、具合が悪かったんでしょ?」
「治ったもーん」
「センブリ飲んでから、まだ五分とたってませんよ」
「ほーんと、よく効くよねえ、センブリって」
 にっこりと笑って、冬威は顔を近づけた。モスグリーンの瞳が、栗色の髪のあいだからこちらを見下ろしている。
「すっかり、気分がよくなったよ〜」
 手がするりと、すっかり馴染んだ場所にのびた。
 まさか、仮病だったんじゃないだろうな。いや、さっきはたしかに、だいぶ苦しそうだったが。
 もし冬威の言うことが本当なのだとしたら、治癒力も桁外れだ。やっぱり、この男は普通じゃない。
 普通じゃないやつに、普通の身で付き合うのはたいへんなんだぞ。いまさら、愚痴を言っても始まらないが。
 ある目的に向かって、徐々に体が作られていく。
 学習能力がないのは、もしかしたら自分の方かもしれない。茉莉は切実に、そう思った。


  (THE END)