| 宿り木 by 近衛 遼 第二十三話 牡丹と萩 「ねえねえ、マリちゃん」 ある日の夕刻。六畳間の隅で分厚いハードカバーの本を読んでいた篁冬威は、台所に立つ茉莉に話しかけた。 ちなみに、冬威が読んでいるのは「日本の昔話」全五巻のうちの一冊である。「桃太郎」も「かぐやひめ」も「舌きりすずめ」も知らなかった冬威のために、茉莉が古本屋で買ってきた。ついでにと思って「世界の昔話」全五巻も探してみたのだが、残念ながら古本屋に置いていなかったので、新本を買った。はっきり言って児童書は「冗談はよせ」と言いたくなるぐらい高いが、これも冬威に、ごくごく平均的な日本人ならだれでも知っている昔話や童話の知識を付けさせるためなら致し方ない。 「はい。なんですか?」 ホワイトシチューの材料を手際よく切りながら、茉莉は答えた。 以前なら、煮込み料理は前日から下準備をしていたのだが、先日、近くのホームセンターで限定五個限りで売り出されていた圧力鍋を安価で手に入れてからは、冬威がやってきてからでも肉じゃがやカレーなどを作るようになった。ちょっと扱いに気を遣うが、慣れてしまえばこれほど便利な調理器具はない。なにしろ、ほんの十五分ほどで大抵の煮込み料理ができてしまう。 先日は豚肉と大根の煮物を作ったが、まるで二時間も三時間も煮込んだような味に仕上がった。 「うわあ、おいしいねえ。それって魔法の鍋みたーい」 例によってほくほく顔で、冬威は大皿いっぱいの大根をたいらげたのだった。 「ちょっとさー、訊きたいことがあるんだけど……」 本を手にしたまま、とことこと流し台のそばに来る。 またなにか、質問があるらしい。この本を買ってから、冬威は物語に出てくる言葉や道具や昔ながらの慣習などについて、あれこれと茉莉に訊ねていた。 「『ほたもち』と『おはぎ』って、どこが違うの?」 「はあ?」 茉莉は包丁を置いた。 「いま、なに読んでるんです?」 「うーんとね、和尚さんの留守中に小僧さんがぼたもちを盗み食いする話」 ああ、あれか。茉莉は頭の中でうんうんと頷いた。 「で、ぼたもちがなんですって?」 「この挿絵を見たらさー、ぼたもちって、おはぎみたいじゃん」 たしかに、そうだ。 「商店街の和菓子屋さんでは、こーゆーの、『おはぎ』って書いてあったよー。『ぼたもち』っていうのは、方言なの?」 妙に細かいことを言い出したな。 内心、邪魔臭いと思いながらも、茉莉は説明した。 「一般には、春のお彼岸にお供えするのが『ぼたもち』で、秋のお彼岸にお供えするのが『おはぎ』ですね。漢字を宛てると『牡丹餅』と『御萩』で、それぞれ春の花と秋の花をもじった名前になってるんです」 「へーっ、やっぱり、マリちゃんて物知りだねー」 受け売りだけどな。ぼそりと自分突っ込みを入れる。 この類の知識は、ほとんど実家の旅館で長年板長を勤めている源造さんや、商店街のおかみさんたちから仕入れたものだった。 「じゃあさー、『ぼたもち』も『おはぎ』もおんなじなんだねっ」 ひとつ賢くなったぞ、という顔。あいかわらず、子供みたいだ。 「基本的にはそうですが、地方によっては、ぼたもちを大振りに、おはぎを小さめに作るところもあるみたいです。牡丹の花は大きいですけど、萩は細かいですから」 「ふぅ〜ん」 「それから、おはぎは粒あんで、ぼたもちはこしあんにする場合もあるようですね」 「えーっ、それはどうして?」 「萩の花を小豆に見立てているんですよ」 これらも完璧に受け売りである。それでも「なるほど」と納得できる点も多いので、茉莉としては粒あんで小さめなのが『おはぎ』で、こしあんで大振りなのが『ぼたもち』と認識していた。 「でもさー、それだったら、この絵はヘンだよねー」 「挿絵のことですか?」 「うん。だって、粒あんだもん」 ぷうっと頬をふくらませて、冬威は言った。 「間違ったこと、載せちゃダメだよねー。出版社に文句言ってやろうかな」 おい。冗談じゃないぞ。たかが昔話の挿絵ひとつで。 そんなことを言ったら「舌きりすずめ」の雀がしゃべるのも、かぐや姫が竹から生まれるのも非科学的な大ボラだってことになるじゃないか。 「た……篁さん」 「え、なーに?」 「あの……お手伝いをお願いしていいですか」 「えーっ、お手伝い? するするっ。なにしたらいいの?」 ぽいっ、と本を放り出して、冬威は言った。うわ。そんなことしたら本が痛むじゃねえか。常々、大切に扱えと言ってるのに。 「ねえねえ、マリちゃんてば」 いけない。いまは本のことより、こいつだ。 「シチューと一緒に、バゲットを食べようと思ってたんですが、買うのを忘れてて……。すみませんけど、商店街のパン屋に行って、買ってきてくれませんか」 じつは、まっかなウソである。すでに米を洗って炊飯器にセットしてあるのだが、この男の気をそらさなくてはと思って、適当なことを言ってみた。 「おつかいだねっ。わかった。いってきまーすっ」 まるでスキップを踏むような足取りで、冬威が出ていく。外見だけ見れば、外国の映画俳優も真っ青なぐらいのイケメンなのだが、あの思考パターンと行動パターンは常軌を逸している。 例のワラ人形事件以来、それなりに一般常識を身につけようと努力してはいるようだが、どうもときおり、間違った常識(それはすでに「常識」ではないのだが)を鵜呑みにしてしまったり、妙に厳密に社会規範などを解釈してしまったりして、結果、社会生活に不適応なのはあいかわらずと言ってよかった。 ま、がんばってくれてるのは、わかるんだけどな。 わかるから、そうそう怒れない。無下にもできない。つくづく、自分は厄介な男に捕まってしまった。 シチューの材料を圧力鍋に入れる。あの男が帰ってくるまでに、加熱してしまわねば。 なにしろ、あの男は先日、「まーだかな〜」と言いながら、コンロにかかったままの圧力鍋の蓋を開けようとしたのだから。 「危ないっ」 早めに気がついて、なんとか制止できたからよかったようなものの、もし少しでも蓋を開けていたら、高圧蒸気が噴き出して大変なことになっていただろう。 あのあと、圧力鍋の構造と使用時の注意点について懇々と言い聞かせたが、それをあの男が覚えているかは疑問である。早いとこ、調理を済ませてしまおう。茉莉はてきぱきと、作業を続けた。 そして、約三十分後。 「たっだいまーっ」 上機嫌で帰ってきた冬威の手には、ひとかかえもあるパン屋の袋があった。 「篁さん、それは……」 「え? バゲットだよ。なーんか今日は、あんまり売れなかったんだって」 どうやら、売れ残りを全部買ってきたらしい。 どうすんだよ、こんなにたくさん。茉莉は嘆息した。バゲットは足が早いんだぞ。あしたには水分が飛んで、バサバサのカチカチになってしまうのに。 「ねえねえ、マリちゃん。シチューは?」 「……できてますよ」 「やったーっ。オレ、いっぱい食べるからね〜」 ま、いいか。この男のことだ。バゲットの二本や三本、いっぺんに食べるかも。よしんば残っても、あしたの朝、食べさせればいい。茉莉が懇切丁寧にバターやジャムを塗ってやれば、少しぐらい固かろうがパサついていようが、喜んで食べるだろう。なんならフレンチトーストでも作ろうか。 瞬時にそう計算して、茉莉はにっこりと冬威を見遣った。 「お手伝い、ありがとうございます。じゃ、食べましょうか」 「はーい。いっただきまーすっ」 このうえなくうれしそうに、冬威は言った。 大きな圧力鍋いっぱいのシチューと、大皿に山盛りのバゲット。男ふたりの晩餐は、それぞれの思いを胸に進んでいった。 (THE END) |