宿り木 by 近衛 遼




第二十二話 盂蘭盆のお仕事

ACT3

 見られてしまった。そりゃまあ、真っ最中じゃないが、この状況は言い逃れのしようもない。
 菜々子は持っていた果物の皿を脇に置き、くるりと踵を返した。きっと、香名子のところに直行するんだろうな。あの母親が、自分の息子が男と抱き合ってたなんて知ったら、いったいどうなるだろう。いくら肝っ玉のすわった香名子といえども、パニックに陥るかも。それとも、早々に見合い話を進められたりして……。
 ぼんやりとそんなことを考えていると、
「なにやってんのよ、おにいちゃん。はやく服、直して」
 部屋を出ていったはずの菜々子が、座敷机の横に正座していた。
「あなたも、電池切れしたおもちゃみたいに固まってないで、さっさとどいてください!」
 ぴしりと、冬威にも意見する。
「あ、はい〜」
 冬威は素直に、菜々子に従った。
「あ……あの、菜々子……」
 服を整えながら、茉莉は妹の様子を窺った。なにやら、異様に恐い。子供のころ、いたずらをして香名子に怒られたときと同じような感じだ。
「おにいちゃん」
 母親ゆずりの、やや吊りぎみの目が向けられた。
「なっ……なんだよ」
「いまの、わざとじゃないわよね」
「はあ?」
「『つるぎ屋』を継ぎたくないから、わざとこの人とあんなことして、おかあさんを困らせようとか……」
「ばっ……バカ。いくらなんでも、そんなことするかよ」
「そ。だったら、話は早いわ」
「話って、なんだよ」
「あたし、おにいちゃんを応援する」
「へっ?」
「だから、おにいちゃんもあたしを応援して」
「応援って……」
 その、肝心の「話」が見えない。
「あたし、健ちゃんと付き合ってるのよ」
「健ちゃんて、あの板前の?」
 先刻、冬威がほくほく顔で食べていた「ぶっかけ冷や奴」を作った、若い料理人である。
「うん。でも、おかあさんはあたしを『はなぶさ』にお嫁にやりたいらしくてねー。表立って反抗したら、すぐにでも仕事辞めて女将修業に行けって言われそうだから、おとなしくしてるんだけど」
 「はなぶさ」とは「つるぎ屋」と同じく老舗の旅館で、たしか三十間近の息子がいる。菜々子は二十二歳。年回りはちょうどいい。
「健ちゃんはあたしよりひとつ下だし、板前としても一人前とは言えないから、反対されるのは目に見えてるでしょ」
「そりゃまあ、そうかも……」
 しかし、それをどう「応援」すればいいんだ?
「あたし、まだまだ仕事続けて、そのあいだに健ちゃんに自分の店を持てるぐらいの力をつけてもらおうと思ってるの。だから、もしおかあさんがあたしの結婚のことであれこれ言ってきても、知らん顔でいてね。そのかわり、あたしもおにいちゃんの見合い話、徹底的に潰すから」
 潰すって言ってもなあ……。できるのかよ、そんなこと。
「でも、それだとおまえの方が不利なんじゃないのか?」
「大丈夫よ。あたし、おにいちゃんよりはおかあさんの性格、わかってるつもりだし」
 母と娘というのは、なかなかに厳しい関係かもしれない。
「そーゆーわけで……ええと、篁さんでしたっけ」
 菜々子は冬威に向き直った。
「はい」
「『つるぎ屋』にいるあいだは、さっきみたいなことは遠慮してください」
「じゃ、どこかべつの宿を取りましょうか?」
「た……篁さんっ! そういう問題じゃなくてですね……」
「そくなことしても、ムダですよ」
 しれっと、菜々子は言った。
「この近辺の旅館や民宿は、みんな身内みたいなものですから」
 要するに、どこにどんな客が泊まって、どんなトラブルがあったか、筒抜けということだ。
「果物を持ってきたのが、あたしでよかったわねー、おにいちゃん?」
 にんまりと、菜々子。たしかに、そうだ。ほかの者なら、香名子の耳に入るだけでなく、あしたには「つるぎ屋」のみんなが自分とこの男の関係を知っていただろうから。
「じゃあこれ、デザートね。あ、そうそう。お膳を下げにくるのは仲居さんだから、くれぐれも気をつけてよね」
「……わかってるよ」
 脱力感を感じながら、茉莉は果物の皿を受け取った。
「おやすみなさーい」
 ガチャリと鍵を開けて、菜々子が出ていく。
 なるほど。施錠していたのか。たしかに、だれかにあんな会話を聞かれてはまずい。自分の妹ながら、なかなかに侮れないものを感じた茉莉であった。


「ねえねえ、マリちゃーん」
 食事のあと。仲居たちが食器を片付け、奥の間に蒲団を敷いていった。冬威はその蒲団の上で、頬をふくらませていた。。
「ほんとに、今日はダメなの〜? オレ、一生懸命がんばって仕事して、やーっと帰ってきたのに……」
「すみません。やっぱり、ここでは……」
「つまんないよ〜」
 枕を抱きしめて、いじいじとしている。あいかわらず、なんとも幼い。茉莉は小さくため息をついた。
「ここに、いますから」
「え?」
「篁さんが寝るまで、ここにいます」
 ほんとは厨房の掃除や、片付けを手伝うつもりだったのだが。
「……そんなの、ひどいよ」
「篁さん……」
「すぐそばにマリちゃんがいるのに、なんにもできにいなんてさー」
 酷だろうか。でも、この男を放っておくこともできない。
 茉莉は、冬威の横にすわった。そっと顔を近づける。キス。軽く音がする程度の。栗色の髪をそっと撫でて、
「おやすみなさい」
「マリちゃん……」
 モスグリーンの双眸が見開かれる。しばらくふたりは、そのまま見つめ合っていた。
 押し倒されるかな。菜々子が釘を差したぐらいで、この男が自分の欲求を抑えるとは思えないし。
 とりあえず、鍵はかけてある。火事などの非常事態でないかぎり、マスターキーを使ってまで従業員が客室に入ってくることはあるまいが。
 まあ、いいか。ただ、あんまりフクザツなことをされると、声が外に漏れてしまうかも……。
「うん。おやすみ。マリちゃん」
 あれこれ考えていた茉莉のひざに、冬威がことんと頭を預けた。
「え……」
「オレが寝るまで、こうしててね〜」
 しあわせそうな顔で、冬威は蒲団をかぶった。両のひざに、重みと温みが染み入る。
「……はい。篁さん」
 茉莉は、心からそう言った。ええ。こうしてますよ。あんたが眠るまで。
 あとで思いきり足が痺れるかもしれないが、そんなのは、たいしたことではない。茉莉はじっと、整った白皙の横顔を見つめ続けた。


「たいへんお世話になりまして」
 翌朝。
 冬威はまた、完璧な「仕事」モードで香名子にあいさつをしていた。
「この次は、ちゃんと予約をとってから参ります」
「あらあら、そんなこと、お気になさらず。たいしたおもてなしはできませんが、どうぞいつでも、お越しくださいね」
 香名子の方も、あいかわらず営業スマイル全開だ。
「篁さん、駅まで送ります」
 荷物を持って、言う。冬威はその鞄を受け取り、
「いや、三剣くん。ここでいいよ。きみもいろいろ忙しいみたいだし」
 また「三剣くん」かよ。心の中で苦笑する。どうやら、菅原所長の口調をまねているらしい。
「本当に、急に来て悪かったね。でも、とても楽しかった」
 穏やかな笑み。
 あれ、なんだろう。これは。
 仕事モードで、単なる社交辞令で言っているだけのはずなのに。
「篁さん……」
「じゃあ、また」
 軽く手を上げて、ウィンクする。そのまますたすたと、冬威は先日、茉莉が迎え火をしていた橋を渡っていってしまった。
 結局、「迎え火」の正しい定義は伝えられなかったな。
 小さくなる背中を見送りつつ、茉莉は思った。まあ、べつにいいか。盆休みが終わってから、ゆっくり説明すればいい。「迎え火」と「送り火」のことを。
「さーて、昼までに部屋の掃除を済ましてしまわな。茉莉、あんたもぼーっとしてんと、手伝いに行きや」
 すっかり通常モードに戻った香名子が、茉莉の背中をばしっと叩いた。
「はいはい。わかったよ」
 冬威の影が陽炎の向こうに消えていく。茉莉はゆっくりと「つるぎ屋」の中へと戻っていった。


(THE END)