宿り木 by 近衛 遼




第二十二話 盂蘭盆のお仕事

ACT2

 茉莉が、冬威のことを職場の先輩だと紹介すると、香名子は営業スマイル200パーセントで歓待した。
「まあまあ、遠いところをわざわざお越しいただいて。いつも茉莉がお世話になっております」
 常の歯に衣着せぬ物言いはどこへやら。老舗旅館の女将として完璧に振舞っている。一方の冬威はというと、
「急におじゃまして申し訳ありません。いつも三剣くんからご実家のお話を聞いていて、ぜひ一度お伺いしたいと思っていたんですが、なかなか機会がなくて」
 こちらもまったく別人のように、にこやかに思いっきりいい加減なことを言っている。
 いつ、おれがあんたに実家の話をしたよ。それに「三剣くん」だって? 初対面のときから「マリちゃん」とか呼んでたくせに。
 だいたい、なんでこの男がいま、ここにいるんだろう。香港の仕事は、長引くかもしれないと言っていたはずだが。
 こんなことなら、あんなに無理してアレに付き合うことはなかった。回数も長さも焼き栗のときとほぼタイ記録。おかげで次の日は、締日だというのに休まざるをえなかった。菅原所長はなにも言わなかったが、急を要する事務処理をやらされた長瀬雛にはさんざん嫌みを言われた挙げ句、近所にオープンしたイタリア料理のレストランのディナーコースを奢る羽目になった。
 せっかく冬威が長期の出張に出て、食費がだいぶ浮いたと思っていたのに、結局はたいして変わらなかったのが悔しい。
「お宿はどこに……あら、まあ、まだお取りになってないなら、うちに泊まっていってくださいましな」
 香名子の営業スマイルと猫っかぶりトークは続く。
「こう申してはなんですが、うちには腕のいい料理人がおりましてね。お気に召すと思うんですが」
「それは素晴らしい。三剣くんが料理上手なのも、頷けますねえ」
「あら、茉莉が料理を?」
「はい。一度、ご馳走になったことがあります」
 ・・・・・・・・・・なにが「一度」だよっっ!!!!!
 もう少しで叫びそうになった。印刷したら、きっと十六倍角ぐらいになってるはずだ。
 危ない危ない。もしかしたら、うちの母親とこの男は似たような傾向にあるのかもしれない。極端に二重人格的とでもいおうか。そういえば、香名子には他人のトラブルを楽しむところがある。
 冗談じゃないぞ。トラブルプレイヤーが二人か? どうすりゃいいんだ。
 茉莉がとんでもない思考の迷路に入りかけていたとき。
「じゃあ茉莉、篁さんを松月の間にご案内して」
 にこやかに、香名子は言った。
「へっ……しっ……松月??」
 声がひっくり返った。松月の間って、超VIPしか泊めない特別室じゃなかったっけ。そこに、どうしてこの男を泊めるというのか。
「かっ……かあさん、なんでまた……」
「仕方ないじゃないの」
 冬威がいるからだろうか。会話は標準語で進む。
「今日はほかの部屋はほとんど埋まってるし、従業員の仮眠室に篁さんをお泊めするわけにもいかないでしょ」
 それはそうだが、だったらなにも、ウチに泊まってもらわなくてもいいものを。はっきり言って、この男に松月の間なんて、猫に小判だぞ。なにしろ、七星窯の和食器フルセットを「うちじゃ使わないから」と他人にポンと譲り渡すぐらい、モノを知らないんだから。
 あの折りに冬威にもらった七星窯の逸品は、いまだに八畳間の押入の中に眠っている。留守中、火事や空き巣の被害に遭わなければいいのだが。
「あー、オレはべつに、どこでもいいですよ。なんなら三剣くんの部屋でも……」
 なにを言い出すかと思えば。
 はっきり言って、実家に帰ってきてまで、この男と同じ部屋で寝たくはない。茉莉は冬威をにらんだ。それぐらいなら、松月の間に放り込んだ方がマシだ。そう結論づけて、
「篁さん、では、ご案内いたしますので」
 ことさら、慇懃に言う。
「はあ、それはどうも」
 この男でも、場の空気を察したのだろうか。香名子に一礼して、おとなしく茉莉のあとに従った。


「ねえねえ、マリちゃん、これ、すっごくおいしー」
 松月の間で、冬威は運ばれてきた料理に舌鼓を打っていた。
「冷たいお吸い物なんてはじめてだー。どうしていままで作ってくれなかったの。オレが汁ものはあったかいのがいいって言ったからー?」
 すっかり、いつもの口調に戻っている。当然ながら、部屋には茉莉と冬威のふたりきりだ。
 冬威がほくほく顔で食べているのは、若い職人がまかない用に作った、通称「ぶっかけ冷や奴」だった。これはきぬこし豆腐を大振りの汁物椀に入れ、ネギやミョウガやショウガなどをトッピングした上から冷たいだし汁をかけるもので、残った豆腐とだし汁を有効利用しようと考えて生み出されたアイデア料理だ。
「篁さんのお口に合うかどうか自信がなかったんで……」
 自分が作ったものではないので、適当にごまかす。それでも冬威は、機嫌よく椀を空にした。
 どれもこれも、このうえなくおいしそうに食べている。
 ……いいのかな。これで。
 ふと、茉莉は思った。たしかに、冬威がしあわせそうにしているのはうれしい。うっかりしたことを言って、この流れを止めてしまったら、とんでもないことになるのはわかっているのだが。
「どーしたの、マリちゃん」
 茉莉が骨を抜いてやった鮎の塩焼きをもぐもぐと咀嚼しながら、冬威は首をかしげた。
「あんまり食べてないねー。おなかでも痛い?」
「いいえ、べつに、そういうわけじゃ……」
 モスグリーンの双眸が、じっとこちらを見ている。まっすぐな視線。思わず、目を逸らした。
 直後。がたん、と座椅子を倒す音。
「え……」
 反射的に顔を上げたときには、冬威の両手が茉莉の肩を掴んでいた。勢いでそのまま横に倒れ込む。
「やだよー」
 冬威は茉莉にしがみついた。
「マリちゃん、オレのこと、きらいになったの?」
「……はあ?」
 好きかどうかはともかく、少なくとも嫌いじゃない。だって、あのときおれは思ったんだから。あんたじゃなきゃ、あんなこと絶対イヤだって。だから……。
「だって、いまシカトしたじゃんかー」
「しっ……してませんよ、そんなこと……」
「ウソだー。横向いたもん」
 あれは良心の呵責を感じてしまっただけだ。源造さんや調理場の若い衆が作ったものを、さも自分が作ったかのように供したりして。
「オレ、マリちゃんの具合が悪いのかと思って、心配したのに……」
「篁さん……」
 そうだ。この、およそ自分の欲求に関することしか興味のなかったような男が、他人の様子を気遣うとは。
 たしかに、仕事上ではじつにそつなく、そのあたりのことに配慮している。先刻の香名子とのやりとりを見ていても、それは十分わかった。
 香名子の前での冬威は、おそらく「仕事」モードだったのだろう。だから口調も会話の中身も、ふだんとはかけ離れたものだった。ぶっちゃけ、よくそんな嘘八百並べられると思ったほどに。
「……嫌いじゃないです」
 茉莉は、しっかりと冬威を見上げて言った。
「マリちゃん……」
「そんなわけ、ないです」
 言ってしまった。
 もしかして、めちゃくちゃマズかったかもしれないけど。
 でも、嫌いになれないんだから仕方ないじゃないか。いい加減にしろと思うことは多々あるにしても。
「ま……」
 冬威の顔が、くしゃりと歪んだ。
 あ、これ、あのときと同じだ。「まつり」。この男が、おれのことをそう呼んだときと。
 肩にあった手が、首筋から頬に流れる。もう一方の手は脇腹から腰に下りて。
 なんだよ、これ。うわ、そんなとこ、さわらなくていいって……。
 そうは思いながらも、体は反応する。唇を犯された。中はもう、それに応えて蠢いている。畳の上はヤバいんだけどな。でも、もう止まりそうにない……。
 手を背中に回そうとしたとき。
 ガタン。
 戸口で、なにやらぶつかったような音がした。やばい。だれか部屋に入ってきたのか?
「おにいちゃん……」
「なっ……菜々子、どうして……」
 組み敷かれ、シャツをめくりあげられた状態で、茉莉は人生第二の過ちを犯したと実感した。