| 宿り木 by 近衛 遼 第二十二話 盂蘭盆のお仕事 ACT1 その日。老舗旅館「つるぎ屋」は、ほぼ満室の状態だった。 「ええときに帰ってきてくれたわ、茉莉。ご先祖さんに挨拶済ましたら、洗い場手伝うてぇな」 関西出身の茉莉の母は、身内に対してはいまだに大阪弁である。 「いつもの年やったら、お盆はわりと暇になるんやけどなあ。今年は白羽温泉の客が流れてきたみたいやし」 白羽温泉とは近県の有名な観光地なのだが、この春、温泉に入浴剤を混入していたことが発覚して、客足がぱたりと途絶えた。そのぶん、歴史的建造物の多いこのあたりに、観光客が増えたらしい。 「忙しいのは結構なことやけど、人手が足らんのは困るわ。あんた、いつまで休みとってるのん」 厨房の入り口で手を消毒していた茉莉に、母の香名子が訊いた。 「十六日までだけど」 十六日には、死んだ父親の施餓鬼(せがき)がある。施餓鬼とは仏経法会のひとつで、今年はこれがあるからどうしても帰省するようにと言われたのだ。 もっとも、一周忌や三回忌のような法事ではないので、欠席してもかまわないだろうと高をくくっていたのだが、香名子はそれを許さなかった。 「あんた、去年は盆も正月も帰ってこんかったやろ。あんまり不義理ばっかりしてたら、バチが当たるで。こないだ倒れたんかて、ご先祖さんが怒ってはるんとちゃうか」 さすがは母親。詳しい事情は知らないはずなのに、痛いところを突いてくる。 あの折りの発作とワラ人形の関連はさだかではないが、「バチが当たる」という言葉は、いまの茉莉には無視できないものだった。 「十六日やて? なんや、たった四日かいな。お盆やいうのに、一週間ぐらいがばーっと休み貰うてこんかいな」 「そんなこと言っても、菅原事務所の事務員はおれひとりだし……」 「ちゃちなとこに勤めるさかい、そないなことになるんや。いい加減にうちに帰ってきたらええのに」 しまった。やぶ蛇だった。 香名子は茉莉が帰郷して、「つるぎ屋」を継ぐことを望んでいる。妹の菜々子から聞いた話では、どうやらすでに茉莉の見合い相手まで物色しているらしい。 「おにいちゃんのお嫁さんてことは、ゆくゆくは『つるぎ屋』の女将になるわけでしょ。もう、おかあさんたら、気合い入れて選別してるわよ」 選別って、源造さんが魚や野菜を仕入れるのとはわけが違うんだから。 ちなみに、源造さんとはフルネームを高倉源造といい、「つるぎ屋」の厨房を与る板長である。御年六十四歳。料理人になって今年で五十年目という、「包丁一本」を絵に描いたような職人だ。 「十六日の晩に団体さんが入ってるんよ。なんとかもう一日、休まれへんの」 洗い場の横で、香名子が言った。 あいかわらず、こっちの都合は二の次だ。とはいえ、何事も正直に思うところをポンポン言い、相手の言い分もちゃんと聞いて、その上で是か非かを判断するので、後々までしこりが残ることはないのだが。 「あとで所長に電話してみるけど、あんまりアテにしないでよ」 「親が危篤やとでも言うとき」 めちゃくちゃなことを言って、香名子は厨房を出ていった。あんな元気な病人がいるかよ。いつもの冗談だとわかっていても、つい心の中で突っ込んでしまった。 「茉莉さん、悪ぃんだけど、そこ終わったら八寸の器、並べてくれませんかね。いまのうちに盛り付けとかねえと、間に合いそうにないんで」 白髪の板長にそう言われ、茉莉は下洗いの終わった食器を洗浄機に入れた。よし、こっちはこれで一段落。八寸の皿は、どこだったかな。 なにしろ、実家に戻ってきたのは大学四年の夏休み以来、二年ぶりだ。あのときも就職活動の真っ最中で、早く下宿に帰りたいと言ったのに、結局二週間ちかくも旅館の手伝いをさせられたっけ。 「茉莉さん、八寸はこっちです」 大根のかつらむきをしていた若い職人が、食器棚の中程を目で指した。 「あ、どうも」 茉莉は礼を言って、さっそく脇取(四角い盆)に皿を並べた。 「はーっ、疲れたー」 夕刻、ひと通りの料理が出終わったあと。茉莉はようやく、椅子にすわることができた。昼すぎに着いてから五時間以上、立ちっぱなしで厨房を手伝っていたので、なにやら足が張った感じがする。 みんな、すごいよなあ。事務所から厨房の様子を見ながら、茉莉は思った。自分はまだこうして休んでいられるが、調理場の職人や座敷を行き来している仲居たちは、それこそトイレに行く暇もないほどだ。 昔から思っていたが、「つるぎ屋」のみんなは元気だ。女将の香名子が闊達で明るい性格だからかもしれないが、従業員の入れ替わりもほとんどないし、常連客も多い。香名子が自分の代でこの旅館を閉めたくないと言うのは、当然と言えば当然だ。自分で四代目。後継者がいないのならともかく、息子がいるのにといった思いが強いのだろう。 なんだか、妙な気分だった。この家から離れたかっただけのころとは、どこか違ってきている自分がいる。それがなぜかは、まだはっきりとはわからないけれど。 「茉莉、なにぼーっとしてんの」 ばたばたと、香名子が事務所に入ってきた。 「あんた、暇やったらお迎え火、焚きに行ってきてえな」 迎え火とは、お盆に帰ってくる先祖の御霊を迎えるため、門前で火を焚く行事だ。 「え、おれが?」 「せや。うちはいまちょっと抜けられへんし、菜々子はまだ帰ってけえへんし」 茉莉の妹は、地元の農協に勤めている。盆休みをずらして取ったらしく、今日も出勤していた。 「ほら、これが麻幹(おがら)。マッチと線香はこっちに入ってるから」 ばさりと布袋が置かれる。 「ちゃーんと全部、灰になるまで付いとくんやで。空気が乾燥しとるさかい、火事になったら大変やからな」 「わかった。じゃ、行ってくる」 「頼むで」 入ってきたときと同じく、慌ただしく出ていく。茉莉は麻幹と線香などを持って、立ち上がった。 空はほんのりとした灰朱だった。東の山の端は、すでに薄墨色に染まっている。ゆるい風が川面を流れていく。 茉莉は「つるぎ屋」の近くにある橋のたもとで、麻幹に火をつけた。さらに線香を束にして、その火にかざす。 これぐらいの風なら、飛び火の心配はないな。そんなことを考えながら、茉莉はぼんやりと緋色の炎を見た。 去年のお盆は、近所のおばさんたちが迎え火を焚くのを眺めていた。子供たちはそれが終わると、こぞって盆踊りに出かけていった。自分はようやく仕事に慣れてきたころで……。 と、そこで回想を打ち切る。同じ時期に、自分の身に起こった人生最大の過ちまで思い出しそうになったから。 その原因にして諸悪(?)の根源たる男は、いま香港にいる。なにやらかなりヤバい仕事らしく、出かける前日は大変だった。 「マリちゃん、オレが死んだら、いっぱい泣いてくれる?」 すがりつくような目で、冬威は訊いた。 「お墓はねえ、所長が建ててくれると思うんだけどさー。マリちゃん、月命日にはちゃんとお参りに来てね。あ、そうだ。オレ、仏壇買っとこうかなー。で、マリちゃんに毎日、お水とごはんと線香とお花とお菓子を供えてもらって、あとは般若心経も……」 ワラ人形の一件以来、一般常識を勉強してくれたのはいいが、体を繋いだ状態でそんなことを言われるのは嫌だ。腰はぎしぎし鳴ってるし、思考回路はショート寸前。焦らされまくったせいで、こっちの方が昇天しそうだった。 いまごろ、どうしているだろう。まさかほんとに、危険な目に遭ってるんじゃないだろうな。 『あーっ、マリちゃん!』 風に乗って、声が聞こえたような気がした。 なんだよ。空耳にしては、やけにリアルだな。おれって、そんなにあの男のことを……。 「マリちゃーんっ、わー、すごいなあ。オレ、マリちゃんを驚かそうと思ってたのに〜」 ホンモノだ。 茉莉は思わず立ち上がった。はずみで、半分焦げた麻幹を蹴飛ばす。 「うわっ……」 まずい。仮にもお盆のお迎え火。踏んづけたりしたら、それこそバチが当たってしまう。 あわてて麻幹を元通りに整え、火を消さないように手で風を送った。仏事関係の火は、決して口で吹いてはいけない。 「なにやってんの?」 モスグリーンの瞳が、茉莉の手元を覗き込んだ。見たところ、ケガをしている様子は窺えない。ほっとして、茉莉はふたたび立ち上がった。 「迎え火を焚いてたんです。今日は十三日だから……」 「えーーーっ、マリちゃん、おれが来ること、わかってたの? やっぱり、オレとマリちゃんの愛は真実の愛なんだねっ」 なにが「真実の愛」だ。いつぞやの夜のことを思い出し、茉莉がげんなりしていると、 「ほんとに、うれしいなー。マリちゃんがオレのために、わざわざ火を焚いて迎えてくれたなんて〜」 おい。まるっきり誤解してるぞ。「日常のマナー辞典」と公務員試験用の「一般教養」のテキストを熟読したんじゃなかったのか? 「あ、あれがマリちゃんの生まれた家だね。行こ行こ。オレ、おなかすいちゃったー」 まずい。「お迎え火」の解説はあとだ。とにかく、この男になにか食べさせなければ。 「今日のおかずは、なーにかな」 いつもの台詞が飛び出す。 「刺身も煮物も焼物も揚げ物も、たくさんありますよ」 「うわあ、楽しみだなー」 茉莉が作ったものではないが、それは言わないことにした。いざとなったら、ひと口ひと口、箸で運んで食べさせてやる。 麻幹と線香がすべて燃えつきたのを確認してから、茉莉は冬威とともに「つるぎ屋」に戻った。 |