| 注意一秒、恋一生! by 近衛 遼 ACT9 翌日から、藤ノ宮高校では一学期の期末試験が始まった。初日は二時限で終了し、本庄凛は十一時ごろ学校を出た。 いつもの道を通る。まもなく、マンションの建築現場だ。 もし、あいつが話しかけてきても、返事なんかするもんか。ぜったい無視してやる。 こぶしを握りしめて、凛は歩を進めた。 『あ、今日は早いねんな』 手旗を持った将太がそこに……いなかった。 「え……」 一瞬、足が止まる。凛はトラックが出入りするあたりを見つめた。 警備会社の制服らしい白い半袖のシャツを着た長身の男がいた。が、将太ではない。年齢も、かなり上のようだった。 休みなのだろうか。たしか月曜日はここのバイトだったはずだが。 急に、気が抜けた。緊張して損した。でも……。 なぜ、こんなに緊張してたんだろう。 その答えは出なかった。凛はゆっくりと、工事中のマンションの前を通りすぎた。 火曜日。テストは三科目だった。 正午すぎにいつもの場所にさしかかる。今日は、ここの仕事は休みのはず。それなのに、なぜか視線が工事現場に向いてしまう。 まったく、なにをやってるんだ、ぼくは。 べつにこの道を通る必要なんかないのに。 説明できない感情を抱きつつ、凛は家路を急いだ。 そして、それから一週間。試験が終わり、答案の返却もすんで、明日からは自由登校だ。 図書室に寄っていたため、少し遅くなってしまった。まもなく五時だ。凛は後片づけの始まった工事現場の前を通った。 やっぱり、いない。 凛は力なく歩いた。将太が大津の家に来た日から、十日。 いったいどうしたんだろう。バイト先にも、公園にも、食堂やラーメン屋にもいない。 病気なのだろうか。それとも、事故にでも遭って……。 自宅にまで行くことはできず、電話をするのもためらわれて、結局今日になってしまった。 いつのまにか、凛はいつぞや将太と一緒に入った牛丼の専門店の前に来ていた。ぼんやりと中を見やる。 あんなこと、言ったからな……。 凛は考えた。 『おまえなんか、きらいだ』 別れ際のひと言。あのときは、ほかにことばが出てこなかった。わけもなく悔しくて、たまらなく情けなくて……でも、それを認めたくなくて。 十七年、ともに暮らしていても、いまだにどこか壁のある自分と祖母のあいだに、将太はごく自然に溶け込んでいた。祖母が初対面の相手に、あれほど素を見せたこともない。それが凛には不思議であり、不本意でもあった。 いや、あらためて考えれば、不思議でもなんでもないのかもしれない。なにしろ、相手は将太なのだ。 見ず知らずの自分を背負って家に連れ帰り、食事をふるまって、それを恩に着せるでもなく「当たり前」のことと考えている。もっとも彼の家族も皆、そういう傾向にあるようだが。 「またな、って言ったくせに」 思わず、そうつぶやく。直後、凛は自分の発したことばに狼狽した。 ぼくは、いま、なんて……。 混乱した頭を左右に振る。と、そのとき、いきなり背中をどんっ、と叩かれた。 「えっ?」 反射的に振り向く。 「どないしたんや? こんなとこで」 見慣れた、浅黒い顔がそこにあった。 「将太……」 「えらい遅いねんな。寄り道でもしとったんか?」 いつもの調子で、将太は言った。 「べつに、そういうわけじゃ……」 「なんや元気ないなあ。もうすぐ夏休みやのに。さ、行こか」 将太は凛の腕をとった。 「え、どこに」 「吉野家に決まっとるやん。腹、減っとるんやろ? 忠義に特盛りおごる約束しとるし」 「忠義って……」 「そーゆーこっちゃ、嬢ちゃん」 いつのまに来たのか、ふたりのうしろに金髪をポニーテールにした男が立っていた。 「バイト、二回も代わったってんからな。それぐらい当然や」 「バイトって、マンションの?」 それにしては姿を見かけなかったと思いながら、凛は訊ねた。 「いーや。居酒屋の方。こいつ、その日になって、休まれへんからって泣きついてきよってなあ」 将太は週二回、居酒屋の厨房で働いている。凛はまだ高校生なので、その店に行ったことはなかったが。 「しゃあないやん。いきなりレポート三十枚書けって言われてんから……」 「例の『ごんじじ』やろ。ほんま、えげつないなあ」 忠義はしみじみと言った。 ふたりの話を総合すると、どうやら将太は「ごんじじ」こと生物学の権藤教授にレポートの提出を命じられ、バイトも休んでそれにかかりきっていたらしい。 「ま、とりあえず出してきたから、晴れて自由の身や。食べよ食べよ」 将太は凛を引っ張って、吉野家の中に入った。カウンターの奥から「いらっしゃい」という活きのいい声が聞こえた。 「にーちゃん、特盛りふたつと並ひとつな」 凛のぶんも勝手に注文する。凛は仕方なく、将太と忠義にはさまれる格好ですわった。 「そういえば嬢ちゃんて、すごいとこに住んでるんやって?」 忠義が凛の顔をのぞきこんで、言った。 「大っきい庭があって池があって、倉もぎょうさんあって、古いお城みたいなとこやて聞いたけど、それやったら嬢ちゃんやのうて、姫さんやな」 ひとりで納得して、うなずいている。 「おい、忠義。しょうもないあだ名付けんなや。凛は凛や。それでええやろが」 「まあまあ。そんな目くじらたてんと。本人からクレーム出てへんのに、おまえがとやかく言うことちゃうやろ。なあ、姫さん」 「ぼくはべつに、どっちでもいいけど」 他人が自分のことをどう呼ぼうが、興味はない。 「ほら、見てみい」 忠義がにんまり笑って、箸を取った。 三人の前に丼が並ぶ。将太はばちっと両手を合わせて、「いただきます」と頭を下げた。食事の前の、いつもの光景だ。忠義も「いっただきまーす」と唱えて箸をつける。 凛は目の前の丼を見つめた。ほかほかと湯気がたっている。だしとしょうゆの、いい臭いがした。 「どうかしたんか」 口をもぐもぐさせながら、将太が言った。 「いらんのやったら、おれが食べたろか」 自分のぶんもまだ残っているのに、将太は凛の丼に手をのばした。 「食べるよっ」 半ばむきになって、凛は丼を手前に引いた。箸を手にして、食べ始める。 やわらかい牛肉と、汁のしみこんだごはんが口の中で混ざる。凛はゆっくりと、その味をかみしめた。 「……うまいやろ」 将太が言った。 「うん」 素直に、凛はうなずいた。 本当においしいと感じる。……そうか。ぼくは、お腹がすいていたんだ。 凛は自分がこの一週間あまり、ほとんど食事をとっていなかったことを思い出した。祖母に注意されても、どうしても食べられなかった。 「やっぱ、人間、腹減っとったらあかんわ。ろくなこと考えへんしなあ」 そうかもしれない。食べものは、体だけでなく心にも必要なものなのだ。 「あー、うまかった。ほな、お先ぃ」 忠義が水を一気飲みして、立ち上がった。 「なんや、もう行くんか」 将太は顔を上げた。 「これからリハやねん。来週、『キャッツ』でライブやから」 「『キャッツ』て、梅田の? すごいやないか」 通のあいだでは有名なライブハウスだ。 「どういうわけかオーナーに気に入られてなあ。ギャラ安いねんけど、ほかんとこにも紹介してもらえるし」 忠義はアマチュアバンド「くれなゐ太夫」のボーカリストだ。女ものの着物を着て、化粧もばっちり施して舞台に上がる。このところ知名度がアップしてきて、着実にファンも増えているようだ。 「姫さんも一回見に来てなー」 忠義はひらひらと手を振って、店を出ていった。 「あいつもヒマなように見えて忙しいやっちゃなあ」 つまようじを手に、将太は言った。凛は黙々と箸を運んでいる。例によって、ゆっくりとした食べ方だ。 「今日は雨になる心配はなさそうやな」 窓から見える青紫の空には、雲ひとつなかった。夏至からまだ一カ月とたっていない。一年中でいちばん昼間の長い時期だ。 それから五分ばかりたって、凛はようやく牛丼を食べ終えた。将太は駅まで送ると言って、連れだって店を出た。 「あ、せやせや。忘れるとこやったわ」 駅の前まで来て、将太は思い出したように口を開いた。 「おまえに会うたら、頼もうと思とったんや」 「なに?」 「今度、鮎の薫製、買うてきてくれへんか」 「薫製?」 「いや、じつはこないだおまえんちに行ったときに、めぐみに頼まれとったんやけど、帰るの遅うなってしもたやろ。そんで、餅だけしか買われへんかったんで、えらい機嫌悪うて……」 将太はため息をついた。 「食いもんの恨みは恐いわ。とくに女は、執念深いからなあ」 「……わかった。あした、買っておく」 「ほんまかっ? いやあ、助かるわ」 地獄に仏とばかりに、将太は凛の手をとった。 「デパートで買おう思たら、めぐみのやつ『そんなん現地で買わな意味ないやん』て言うてなあ」 情景が容易に想像できる。 「ほな、あさって、うちに遊びに来てえな。……ああ、まだ学校行かなあかんのかな」 七月半ば。学校によっては課外授業や補習を行なうところもある。 「終業式までは自由登校だけど」 「よっしゃ! 決まりやな。昼ごろに来てもろて、ごはん食べて、それからプールにでも行こか。新聞屋のおっちゃんにもろた券があるんや」 将太はすっかり盛り上がっている。道行く人々が、ふたりをちらちらと見ていることにも気づいていないようだ。 「あの……」 凛は手を引いた。 「電車の時間があるから」 「あ、そうか。乗り継ぎミスったら、たいへんやもんな」 「うん。それじゃ」 「気ぃつけてな。あさって、待ってるさかい」 将太は凛の頭をぽんぽんと叩いた。凛は小さくうなずくと、改札口に向かった。 背を向けていても、将太が見送っているのがわかる。一時間前とはまったく別人のようになった自分を感じつつ、凛はホームへの階段をのぼった。 |