| 注意一秒、恋一生! by 近衛 遼 ACT10 七月の末に、梅雨に逆戻りしたかのような雨が三日ばかり続いた。 本庄多津は、縁側に立って前栽をながめていた。 「草が長うなりましたなあ」 「よう降りましたよって……。吾妻はんを呼びまひょか」 榎木ふみが冷茶をいれつつ、進言した。吾妻というのは、本庄家に出入りしている「あづま造園」の社長である。 「そうどすなあ。若い衆に来てもろて……いや、よろしおす」 多津はくるりと踵を返した。 「凛を呼んどおくれ」 「へえ、ただいま」 ふみはお茶を座敷机に置くと、廊下に出た。多津は床の間の横にすわり、ガラス製の湯呑み茶碗をゆっくりと口に運んだ。 「おばあさま。ご用ですか」 白い綿シャツに薄い萌葱色のズボンの少年が、次の間に現れた。 「まあ、そこへおすわり」 「はい」 凛は座敷机の前にすわった。 「逢坂はんは、いまどないしたはるんえ」 なんの前置きもなく、多津は言った。 「将太なら、毎日アルバイトに行っているはずですけど……それがなにか」 質問の意図をはかりかね、凛は次のことばを待った。 「そうか。夏休みやいうのに、いろいろ忙しいことどすなあ」 多津は冷茶を飲み干して、茶托に置いた。 「せやけど、一日も休みがないいうことはおまへんわなあ」 「それは、まあ……」 先週は一緒に「くれなゐ太夫」のライブを見に行ったし、来週は天王寺の温泉プールに行く約束をしている。 「あした、鮎を仕入れますよって、逢坂はんに食べにきてもろて」 「あしたですか」 急な話である。 「べつに急がしまへんけど、あんまり長いこと生け簀に入れとくと身が痩せますよってになあ」 「わかりました。電話をしてみます」 「頼みましたえ」 多津はすっと立ち上がり、座敷を出ていった。 蝉の鳴き声が簾の向こうから聞こえる。凛はすっかり結露したガラスの湯呑みに手をのばし、冷茶を一気に飲んだ。 「鮎、食わしてくれるんやて?」 開口一番、将太が言った。 「らしいよ。でも、よかったの」 門から玄関までの長い道を歩きながら、凛は訊ねた。 「なにが」 「アルバイト、休んだんだろ」 「なんや、そんなことかいな。心配せんでもええて。忠義にピンチヒッター頼んどいたから」 「……また?」 「ええやん、べつに。あいつも空きの日やったし」 将太は以前にも、居酒屋のバイトを忠義に代わってもらっている。そのとき、客として来ていたライブハウスのオーナーが忠義と意気投合したらしい。 「いっぺん、店に来えへんか」 そう言われて、バンドのメンバーとともに遊び半分でライブハウス「キャッツ」へ行くと、すっかりオーディションの準備ができていて、勢いにまかせて何曲か披露したところ、その場で採用が決まった。 「とりあえず二週間な。あとは、神戸の店、紹介したるわ。九月になったら、またうちに来てや」 オーナーは至極ごきげんで、練習用のスタジオなどにも口を利いてくれたという。 「それより、天然の鮎て、ほんまか?」 「たぶんね。魚正の主人はそう言ってる」 「そら、すごいわ。養殖のんはスーパーでも売っとるけど、天然もんはなかなか庶民の口には入らんからなあ」 将太が期待に胸をふくらませて玄関に入ると、奥からふみがおしぼりと麦茶を持って出てきた。 「いやあ、逢坂はん。ご苦労さんどすなあ」 「こんにちは、おばちゃん。……ご苦労さんて、なんのこっちゃ」 「なにって……いややわ、凛さん。逢坂はんにお話してはらへんの」 ふみはあきれた様子で、凛を見た。 「ぼくはおばあさまに、将太を呼べって言われただけだよ」 「そらそうどすけど、ほな、草むしりは……」 「草むしり?」 将太が口をはさんだ。 「へえ、じつは、前栽の草がだいぶ伸びましてなあ。大奥さまは逢坂はんに頼んだらええて言わはって」 実際は「あの背の高いのんにさしたらよろし」と言ったのだが、そこは長年、本庄家に世話になった身である。主人の風聞に関わるようなことは口にしない。 「かまへんで、おばちゃん。前栽だけでええんやろ」 「へえ。とりあえず、座敷から見えるとこお願いしますわ」 「よっしゃ、まかしとき」 将太はコップに入った麦茶をひと息で飲んだ。 「ほな、行こか」 「ぼくも?」 「ひとりで草むしりなんか、つまらんがな」 当然のように言って、将太は凛の手をつかんだ。ずんずんと玄関脇の道を進む。 「ふわー、けっこう広いなあ。ま、ぼちぼちやろか」 ふみに貸してもらった軍手をはめて、将太は沓脱ぎ石の近くから作業に取りかかった。 「きのうの朝まで雨降っとったから、まだやりやすいわ。地面がカラカラに乾いとると、ちょっとやそっとじゃ抜けんからなー」 すでに、こめかみからあごにかけて汗が流れている。今日の最高気温は、たしか三十四度だ。まだ午前中とはいえ、ぐんぐん気温は上がっていた。 「せや、凛。来週のプールのこっちゃけどな。めぐみがどうしても一緒に行きたいて言うとるねん。かまへんか?」 「べつに、どっちでもいいけど」 縁側にすわって文庫本を読んでいた凛が、興味なさそうに答えた。 将太に引っ張られて中庭までついてきたものの、彼は作業に加わってはいなかった。将太もそれを云々する気などまったくないらしい。 「なんや、友達も来るて言うとったなあ。おんなじクラブの子らしいけど」 将太は、家族の近況や大学のことなどをあれこれ話し続けた。凛は文庫本から目をはなさずにいる。聞いているのかいないのか、その表情からはうかがえない。 「このへんの石敷いてあるとこ、土ほじくり返したらまずいんちゃうかなあ。いっぺん、石どけよか」 ぶつぶつと言いながら、楕円形の小さい石を脇へ除ける。気の遠くなりそうなその作業を小一時間かけて終えて、ようやく将太は腰を上げた。 「とりあえず、こんなもんかな。植え込みの方はまだやけど……うわーっ、かゆいと思たら、えらい蚊やなあ」 首にかけていたタオルで、ひざから下を払う。 一応、ふみから蚊取り線香は借りてきたのだが、なにしろ広い庭である。そのうえあちこち動き回っているので、線香の効果などないに等しかった。 「凛、大丈夫か?」 鹿威しの前から、将太は縁に向かって訊ねた。 「え、なにが」 凛は顔を上げた。 「なにて……うわあ、えらいことになっとるがな」 将太は大股で凛に近づき、ぐいっと手首を引いた。 「ほら、ここんとこ。四つも咬まれとるやん。かゆないんか?」 ひじの下あたりが、ぽつぽつと赤くなっている。凛はそれを見て、 「ああ、そう言えば……かゆいね」 「そんな他人事みたいに……しっかし、おまえ、細いなあ」 将太はまじまじと、凛の腕を見た。 白くすんなりとした腕に、青い血管が浮いている。通学以外はほとんど外に出ないと言っていたが、おそらく日焼けしにくい体質なのだろう。 骨太で、がっちりと筋肉がついている自分の腕とくらべてみると、とても同じ男だとは思えない。 「そういや、最初、女の子やと思たもんな」 連休明けの朝。歩道橋の下ではじめて会ったとき、凛は貧血をおこして動けなくなっていた。白い頬、弱々しい声。もろに好みだったのだが。 「悪かったね。女の子じゃなくて。……はなしてよ」 凛は憮然として、将太の手を払った。 「あ、ごめんな。痛かったか?」 無意識のうちに力を入れたかと反省する。 「ぼく、上に行くから」 凛は靴を脱いで廊下に上がった。そのまま、すたすたと階段の方へ歩いていく。将太はそれを見送りつつ、 「もうすぐ昼やで」 「お膳ができたら、呼んで」 振り向きもせずにそう言って、階段を上がっていく。将太は小さくため息をついて、縁に腰掛けた。 姫さん、かあ……。 忠義がそう言うのもわかる。尊大な態度でいながら、それを周囲に甘受させてしまうなにかが、凛にはある。 将太は縁に置いてあった文庫本をぺらぺらとめくった。 凛は本を読むときに、ページの端を折る癖があるらしい。何ページかごとに、上の角に折り筋がある。先刻読み始めたときは、たしかこのあたりだったはず……。 「あれえ?」 将太は首をかしげた。 いま、読んだぶんの折り筋がない。 「折るのん忘れたんかなあ。でも……」 いったん身についた習慣というものは、そうそう変わるものではない。将太はそっと、本を置いた。 凛は、この一時間あまり一ページも本を読んでいなかった。 「わけわからんやっちゃなあ」 将太は再び、ため息をついた。 |