注意一秒、恋一生! by 近衛 遼




ACT8
 午後、凛は本屋へ行くと言ってひとりで出かけ、客であったはずの将太は、ふみを手伝って皿洗いやら掃除やらに精を出した。
「すんまへんなあ、逢坂さん。いろんなこと頼んでしもて」
 凛の部屋の蛍光灯を取り替えていた将太に、ふみが声をかけた。
「かまへんかまへん。乗りかかった船や。ほかになんか、することあったら言うてな」
 将太は踏台から降りた。
「それにしても、この部屋も広いなあ」
 凛の部屋は二階の南東にあって、十二畳、八畳の続き部屋に六畳の控えの間がついていた。床の間には鮮やかな色合いの青磁の壺と、小振りの香炉。窓際の文机の上には螺鈿の文筥が置いてある。
 古めかしい本棚には、あらゆる種類の書物が並んでいた。中には、初版本とおぼしきものまであって、とても高校生の部屋とは思えなかった。
 もっとも、ふみが話してくれたところでは、凛はもっぱら自分の机のある八畳間で寝起きしているらしい。たしかに、八畳間にはなにかしら生活の臭いがある。
「うわー、クラシックのCDがこんなにたくさん……。あれ、これ、同じ曲やんか。あ、これも」
 将太はCDラックをながめて、言った。ふみがそれを聞いて、
「ああ、なんでも、オーケストラや指揮者によって、おんなじ曲でも全然違うんやそうで、いろいろ集めて聞きくらべてはるんですわ」
「へー、そんなもんかいな」
 たしかに、ポップスでもロックでもアレンジによって印象は変わるのだから、クラシックもまたしかりなのだろう。
「さあて、そろそろ魚正はんも来はるやろし、台所に行きまひょか」
 ふみが洗濯物を片づけ終えて、言った。
「鯉のあらいと、鯉こく(味噌汁)どすやろ。あと、なにしまひょかいなあ」
「豆腐があったやんか。冷や奴は?」
 将太は冷蔵庫の中身を思いだしながら、口をはさんだ。
「大奥さまは、豆腐はぬくい方がお好きらしゅうて……かと言うて、この時期に湯豆腐いうわけにもなあ」
「ほな、豆腐ステーキにしよ」
「ステーキ? 油っこいことおへんか」
「しめじをさっと湯がいて添えて、甘めのしょうゆあんをかけたらうまいで。山椒味噌があったから、茄子の田楽もええなあ。こんにゃくはカミナリこんにゃくでもして……おばーちゃん、歯は大丈夫やろ。お昼に、たこの酢のもん食べてはったし」
「へえ。そら、もう……ふだんから、養生してはりますからなあ」
 なんでも、自前の歯がまだ二十四本もあるらしい。
「ほな、それでいきまひょか。逢坂さん、豆腐ステーキ、頼みますえ」
「まかしとき。とりあえず、米、研ごか」
 将太は大きな米櫃から、五合の米を洗い桶に移した。
「さっきも思うたけど、やっぱり米どころやなあ。粒の揃うたええ米や。毎日こんなん食べられるなんて、うらやましいわ」
「その日に食べる分しか踏みまへんしなあ。そこらに出回っとるのんとは、ちいとばかり違いますえ」
 この場合、踏むというのは精米することである。
「へー、どうりで米のいい臭いがすると思たわ」
 手早く米を研ぎながら、将太は言った。
「こんなもんかな」
 洗った米を、ざるに上げる。
「さて、と。豆腐豆腐……」
 冷蔵庫の中をごそごそ探っていると、背後で声がした。
「ふみ、凛はどこえ?」
 上がり口に、多津が立っていた。
「まあまあ、大奥さま。こんなとこまでお越しにならんでも、呼び鈴鳴らしてくださればまいりますのに」
「そんなことはよろしおす。凛は」
「本屋に行くて言わはって……。五時ごろには帰るて言うてはりましたさかい、まもなくやと存じますけど」
「そうか。……いま、米研いでたんはあんたえ」
「は? いいえ、逢坂さんどすわ」
「……ふん。あんたがはじめて、うちに来たときよりはましやな」
 それだけ言うと、多津は奥に入っていった。将太はそれを見送って、
「おばーちゃん、昼寝終わったんやな。……しもた。晩の献立、これでええんか、訊けばよかったなあ」
「あのご様子なら、よろしいんやろ」
「へ?」
 将太はふみを見た。ふみは、くすくすと笑っている。
「どしたん、おばちゃん」
「ほんま、お変わりになってはらへんわ」
 ふみは昔、自分がはじめて本庄家にやってきたときのことを話してくれた。
 当時、まだ十代半ばだったふみが最初に多津に命じられたのは、米を研ぐことだった。下働きに雇われたわけではないが、食事の世話も大事なつとめだと思って言われた通りに米を洗った。
 そのとき、多津がひとこと。
「米の身になってみよし」
 なにを注意されたのかわからずに戸惑っていたふみに、古参の女中が、
「力まかせに研いだら、米がつぶれてしまいますやろ」
 と、こっそり教えてくれた。
 昔は、米を研ぐ音を聞いて女中の給料を決めていたそうだ。
「もし、うちが炊き屋づとめに来たんやったら、だいぶお給金は低おしたやろなあ」
 その基準でいくと、とりあえず将太は合格ラインに達しているらしい。
 こうして、ふたりがあれこれと夕食の用意をしているところに、魚正の主人が鯉を持ってやってきた。
「時間がたったら固うなるさかい、早よ召し上がってもろてな」
「へえ、承知しとります。ご苦労さんどした」
 ふみが鯉のあらを確認しながら、そう言った。将太はきれいに削ぎ切りにされた鯉の身を、氷をしきつめた器に並べた。同時に鯉こくの用意もする。
「おばちゃん、味見してぇな。おれ、豆腐ステーキ作るさかい」
 水きりしたきぬこし豆腐を用心深くフライパンに並べる。
 しょうゆあんの香ばしい臭いが台所に広がりはじめたころ、玄関の格子戸を開け閉めする音がかすかに聞こえた。
「あ、帰ってきたんやな。ちょうどよかった」
 フライパンを片手に、将太は顔を上げた。
「おーい、凛。ごちそうできてるで」
 上がり口に向かって声をかける。が、姿はない。
「あれ? どしたんかな」
 どうやら直接、奥の座敷に行ったらしい。
「凛さんがお帰りやったら、もうお膳運んでもよろしおすやろ。逢坂さん、豆腐はこの皿に頼みますえ」
 ふみが薄緑の角皿を脇取り(四角い盆)に置いた。
「え? ああ、わかったわ」
 将太はあわてて、豆腐ステーキを皿に盛り付けた。


 本庄家の夕食はだいたい六時と決まっているらしく、ふみは五分と遅れずに座敷にお膳を運んだ。
「いただきます」
 凛が抑揚のない声で言った。多津はきっちり手を合わせてから、箸を取った。
 昼食のときと同じく、ほとんど無言のうちに食事が進んでいく。
「なあなあ、おばーちゃん。味付け、これでええか? ちょっと甘すぎたかなあ」
 将太が豆腐ステーキを食べながら、訊いた。多津はゆっくり咀嚼してから、
「こんなもんどっしゃろ」
 と、そっけなく答えた。
「しめじは湯がきすぎどすえ」
「え、ほんまか? ごめんな、おばーちゃん」
 将太がそう言いつつしめじを口にしたとき、カラン、と椀の落ちる音がした。
「うわっ……なんや、凛!」
 将太はあわてて、ふきんを差し出した。凛のお膳の上に、鯉こくがこぼれて広がっている。
「畳は……ああ、大丈夫やな。おばちゃん、ふきん、もう一枚」
 将太はふみからふきんを受け取ると、お膳をていねいに拭いた。
「手ぇすべらせたんか? あほやなあ」
 凛は横を向いている。将太は椀を持つと、
「ちょっと待っときな。いま、おかわり持ってきたるわ」
「……いらないよ」
「え?」
「たかが味噌汁ぐらいで、大騒ぎしないでほしいな」
「なんやて」
「鯉なんて、いつでも食べられるんだから……」
 パシッ、と、頬を打つするどい音が高い天井に響いた。多津はほんの一瞬、箸を止めたが、また黙々と続きを食べはじめた。
「食べもんを粗末にすんなや」
 将太は凛を見下ろした。
「こぼしてしもたんはしゃあないけど、もったいない、ていう気持ちがないとあかんやろ」
 いつになく真剣な表情だ。凛は唇をかみしめている。
「おかわり、持ってくるさかい」
 椀を手に、将太は座敷を出ていった。ゆっくりと茄子の田楽を食べていた多津が箸を置き、
「なにが気にいらんのか知りまへんけど、いまのはあんたが悪おす」
 そう言うと、再び箸を取る。凛は両手をにぎりしめて、お膳を見据えた。
 三分ばかりして、将太が手盆に汁椀を乗せてもどってきた。
「お待たせー。ちゃんとあっためなおしてきたで。ほら、ええ臭いしてるやろ。ごぼう、多めに入れといたからな。しっかり食べや」
 先刻のことなどすっかり忘れたかのような明るい口調だ。凛は無言のまま、差し出された盆の上から鯉こくの入った椀を受け取った。


 すっかり日も暮れて、ちらほらと星もまたたきはじめたころ。
 将太は夕食の後片づけを終えて、本庄家を辞した。凛は多津に命じられ、将太を送って外に出た。
「道、わかるからここでええで」
 大きな門の前で、将太は言った。
「……そう。じゃ」
 下を向いたまま、踵を返す。
「なんや。まだ怒っとるんか?」
 将太は凛の顔をのぞきこんだ。
「そういうたら、昼からおかしかったもんなあ。具合でも悪かったんか?」
「……だ」
「へ?」
「おまえなんか、きらいだ」
 小さな、しかし、はっきりとした声。
「そうか? そら残念やなあ。ま、さっき叩いてしもたし、しゃあないか」
 将太は頭をかいた。
「ほな、またなー」
 軽く手を上げて、ゆるやかな坂を下る。凛は通用門に手をかけ、その背中を見送った。
「……ぼくは、きらいだって言ったんだぞ」
 一語一語、しぼりだすようなそのつぶやきを、聞く者はだれもいなかった。