| 注意一秒、恋一生! by 近衛 遼 ACT7 本庄家の台所は、母屋の北東の角にあった。 広さは二十畳をゆうに超えるだろう。流しが四カ所あり、大きな焼き台やオーブン、食器洗浄機などが並んでいる。冷蔵庫も大型のものが三つあり、それぞれにさまざまな食材が納まっていた。 「いやあ、まあ、ほんま、一時はどうなることかと思いましたけど、なんとか形になりましたなあ」 ふみがお膳に料理を並べながら、そう言った。 将太がいきなり「おばちゃん、昼飯作ろ」と台所にやってきて、冷蔵庫の中をのぞいたのが一時間あまり前だ。 「うわあ、きれいな鳥肉やなあ。これ、赤鶏かな。昆布もええ色しとるやんか。え、利尻昆布? やっぱりなあ」 あれやこれやと材料を吟味し、ふみとも相談した結果、山菜の炊き込みごはんに鳥肉と里芋の煮物、たこの酢の物、若竹汁といったメニューが決定した。活けの鯉もあったのだが、これはさすがにさばくことができなかったので、魚正という出入りの魚屋に連絡して引き取ってもらうことにした。 「あとで、あらいにしてお持ちしますわ。ほしたら、夜んでも大奥さまに召し上がってもらえるし」 魚正の主人はそう言って、大きな魚籠に鯉を入れて持ち帰った。 「なあなあ、このメロン、出してもええんか」 「それはまだちょっと早いやろから、こっちのん切りまひょか」 調理台をはさんで将太とふみが会話をしているのを、凛は上がり口にすわって聞いていた。将太が台所に入ってから、ずっと同じ態勢でいる。 「さ、できたできた。凛、これ、どこに運ぶんや」 塗りのお膳を手に、将太は訊ねた。 「こっちだよ」 ぼそっと言って、凛は立ち上がった。 母屋の長い廊下を進んで、中庭に面した座敷に入る。十二畳ふたつの続き部屋だ。大きな床の間には、青々とした檜葉が活けられている。掛け軸も夏らしく、流水に鯉だった。 その床の間の横に、多津はすわっていた。 「おばーちゃん、お待たせ」 将太は多津の前にお膳を置いた。 「ごはんはいま、榎木のおばちゃんが持ってくるから……」 「なんえ? その格好は」 「へ?」 「みともない。座敷に上がるときは、たすきぐらい外しよし」 袂が邪魔になるからと、調理を始めるときにふみがたすきを掛けてくれていたのを忘れていた。 「ああ、これかあ。ごめんな、おばーちゃん」 将太あわてて、たすきをほどいた。 「これでええか」 「……えらい着崩れてますなぁ」 「こんなもん、着慣れんからしゃあないやん」 言いつつも、襟元だけは整える。 やがて、ふみがおひつを運んできて、ようやく昼食が始まった。 「鯉は、どうおしやしたんや」 箸をとる前に、多津が言った。 「魚正の大将が持って帰りはりました。夕餉に間に合うよう、さばいてくれるて言わはって」 ふみがお茶の用意をしつつ、答えた。 「そうか」 多津は神妙な顔で両手を合わせ、それから吸い物に箸をつけた。ひとくち飲んで、椀を置く。 「松倉は下ごしらえを済ましてたんやなぁ」 「はあ?」 ふみは首をかしげた。 「いやあ、今朝は用意始めるのんが遅うて、器選んだり下洗いするぐらいの時間しかなかった思いますけど……」 「ほな、このお椀は……」 もうひとくち、口をつける。 「ふん……」 なにやら納得したようにつぶやいて、多津は酢の物や煮物にも箸をのばした。ゆっくりと、黙々と食べていく。凛も同じように箸を進めた。 将太はふたりの様子をながめつつ、 「なんやお通夜みたいやなあ。そんなに不味いか?」 自分ではまあまあの出来だと思っていただけに、無言で食されるのはつらい。 「逢坂さん、ちょっと」 ふみが、ちょんちょんと将太の肘をつついた。目配せをして、廊下へ連れ出す。 「なんや、おばちゃん」 「気にせんとおくれやす。大奥さまも凛さんも、えろうご満足の様子やから」 「へっ……満足?」 とてもそうは見えないが。 「大奥さまはお口に合わんもんが出ると、たいがい早うお召し上がりになりますんや。あんなにゆっくりお箸を運んではるとこを見ると、きっとお気に召したんやわ。うちもさっき味見さしてもろたけど、なかなかええ按配でしたえ」 せやから安心し、と、ふみは将太の腕を叩いた。 ……金持ちの考えることはようわからん。 将太は頭をふりつつ、座敷にもどった。 そして、会話らしい会話もなく、一時間ちかく。 「ふみ、水菓子は」 お膳をすっかり空にして、多津は言った。 「へえ。いまお持ちします」 ふみが隣室に用意していたメロンを運んできた。 「なんえ、この切り方は」 見るなり、眉をひそめる。 「ごめん、おばーちゃん」 将太が先手を打ってあやまった。 「失敗してしもてん。おばーちゃんが大きい方、取ってえな。おれはごはん三杯もおかわりさしてもろたし、もうおなかいっぱいやから」 多津は表情を変えずに、 「そら、そうどっしゃろ」 と、言って、一番大きなメロンの乗った皿を取った。 「菜切りで切りはったんか」 「え? うん、そうやけど」 「西瓜用の、刃の長い包丁があったはずえ。気ぃつけて見よし」 「そんなこと言うても、おれ、ここ来たんははじめてやし」 「ふみに聞きよし。わからんもんを、わからんまましようて思うんが間違いどす」 文句を言いつつも、メロンはしっかり口に納まっている。 「けど……ま、ようおしやした」 ひとり言のようにそう言う多津を、凛はじっと見つめていた。お膳のものは全部食べていたが、メロンはあとから食べると言って断った。 「ごちそうさま」 ていねいに一礼する。多津も胸の前で手を合わせ、 「ごちそうさんどした」 と、軽く頭を下げた。 将太も元気よく、「ごっそさん」と食後のあいさつをした。 ふみがお膳をひとつずつ引いていく。将太もそれを手伝おうと、自分の膳を持って立ち上がった。 「ちょっとお待ち」 多津が口もとをふきながら言った。 「なんや、おばーちゃん」 「あんた、お急ぎえ?」 「え、いや、べつに、今日はなんにも用事ないけど」 「ほな、晩までおり」 「へっ?」 「魚正が鯉を届けてくれますよって、それ食べてから去によし」 「……ええんか、おばーちゃん。晩飯までごちそうになって」 「そのかわり、ほかにもなんかお菜を作っとおくれやすな」 「なんかて言われても……」 「ふみと相談して、適当におやり」 多津はすっと立ち上がって、襖に手をかけた。 「少し、休みます」 それだけ言うと、多津は座敷をあとにした。ふみが膳を片づけながら、大奥さまは午睡をするのが習慣だからと教えてくれた。 「なんや、おかしなことになってしもたなあ」 将太は頭をかいた。 「ちょっと電話貸してもらうわ。かあちゃんに晩飯食べて帰るて言うとかないかんし。……どうしたんや?」 凛は、すわったまま微動だにしない。まるで石のようだ。 「なに?」 「なにって……気分でも悪いんかと思て」 「べつに。なんでもないよ」 そう言いながらも、凛は将太を見ようとはしなかった。出会ってすぐなら、ほとんど表情を変えない彼の心中を測ることはできなかったかもしれない。が、いまは違う。 彼は、あきらかに不機嫌な顔をしていた。 「行けば?」 「え……」 「電話、するんだろ」 「ああ、けど……」 「階段の横と、向かいの広間にあるよ。台所にも子機が置いてある」 台所に電話があることは知っていた。しかし、凛はなぜ、こんなにつっけんどんな態度をとるのだろう。 ふだんから決して愛想のいい方ではないが、それでもこの二カ月ばかりのあいだに、かなりうちとけてきたはずだ。現に茶室では、将太にあれこれ作法を教えてくれていたのに。 やっぱり、メシが不味かったんかな……。 ほかに思い当たるふしもなく、将太はしきりと首をかしげながら、台所へ向かった。 |