注意一秒、恋一生! by 近衛 遼




ACT6
 七月に入ったばかりの日曜日。
 逢坂将太は、本庄凛の家の前で、ぽかんと口を開けていた。
 立派な瓦を使った大きな門の脇には通用門があり、家人もふだんはそこを通って中に入るのだという。
 長く続く土塀は、いったいどこで曲がっているのか、肉眼ではわからない。
「はあーっ…………なんちゅうか、その……えらいとこに住んでんねんな」
「そう? まあ、入ってよ」
 凛が通用門を開けた。
「ほな、お邪魔しま……」
 す、と言う前に、また絶句する。
 そこは、見事に手入れされた庭園だった。中ほどに橋のかかった池があり、おそらく相当な値がつくであろう錦鯉が優雅に泳いでいる。
 門からカーブを描いて続く石畳の、行き着く先はまったく見えなかった。
「ここ、ほんまにおまえんちか?」
「そうだけど」
「寺とか、お城の跡とかとちゃうやろな」
 思わず、そう訊きたくなるほどの広さだ。
「残念ながら、違うよ」
 凛は将太に背を向けて、どんどん進んでいく。
「あ、ちょっと待ってえな。迷子になったらどうすんねん」
 半分本気で、将太は言った。
 まったく、いまどきこんな家があるんやな……。
 将太は、土産にと皐月に持たされた釣鐘まんじゅうを手に、凛のあとを追った。

 大雨の影響で交通機関が乱れ、凛が逢坂家に泊まったのが一週間前。翌日の夜に、凛の祖母と名乗る老婦人から電話があり、お礼に一席設けたいと言ってきた。
「そんな、たいしたこともしてへんし、お断りしたんやけどねえ」
 皐月は苦笑まじりに言った。
「向こうさんは、前に貧血起こしたときも助けてもろてるから、て言わはってなあ。あんた、代表して行っといで」
「代表って、なんやねん」
「うちら全員、招待されたんやけど、さすがにええ年した大人が七人も行くわけにはいかんやろ。おとうさんは来週、出張やし」
 結局、将太ひとりが招待に応じることになり、西大津の駅まで凛が迎えにくることに決まった。
「二の宮さまの家なら、私も行きたかったのに」
 好奇心旺盛なめぐみは最後までゴネていたが、鮎の甘露煮と力餅で留守番を承諾した。
「できたら、若鮎の薫製も食べたいなー」
「甘露煮か薫製か、どっちかにしてえな」
「ほな、薫製」
 ちゃっかり、高い方を言う。
 こうして、将太ははじめて、本庄家の門をくぐったのだった。


 門からさらに二百メートルばかり歩いて、それこそ古寺を思わせるような風格のある、大きな日本家屋が現れた。
 広い玄関である。そこだけで、逢坂家の敷地ぐらいはありそうだ。
「榎木さん、ただいま」
 凛が奥に向かって、言った。
 たいして大声をはりあげたわけでもないのに、長い廊下の向こうから、「はいはい」と返事をしながら中年の女性が小走りに出てきた。
「えろう早よおしたなあ。大奥さまはいま、水屋の用意してはりますわ」
 色白のぽっちゃりとした、いかにも人のよさそうな顔をしている。
「このまま茶室に行ってもいいのかな」
「へえ。お帰りやしたら、ご案内するよう言われとります」
「そう。じゃ、行こうか」
 凛は踵を返した。将太はあわてて、
「おい、茶室て、なんやねん」
「お茶をいただくところだよ」
「それぐらい知っとるわい。そやのうて……いまから、おまえのばーちゃんが茶、点てるんか」
「あれ、言ってなかったっけ」
「聞いてへんわ、そんなもん」
 将太は釣鐘まんじゅうを持ってきたことを後悔した。せめて菊屋の最中でも買えばよかった。
 広い庭の中に竹垣で囲まれた一角があった。庵と称するにふさわしい簡素なたたずまいである。
「大奥さま、逢坂さんがおみえです」
 声をかけると、水屋の脇の障子がすっと開いた。
 中は薄暗く、障子の奥にいる人物の顔は判然としない。
「ふみ」
 やや高い、硬質の声。凛が「榎木さん」と呼んでいたこの女性の名は「ふみ」というらしい。
「へえ。なにか」
 ふみは、障子のそばに近寄った。
「離れへ行って、先代さんのお召しの中から適当なもん、見繕っておあげ」
「へえ、あの……よろしおすんか」
「そんな山歩きするような格好では困りますよってになあ。……早よ連れておゆき」
 言いおわると、再び障子が音もなく閉まった。
「あの……いまの人……」
「おばあさまだよ」
「おれ、あいさつもせえへんかったで」
「おばあさまもしてないから、いいじゃない」
 たしかに、将太にはひとことも話しかけていない。
「それより、着替えにいかなくちゃ」
「へっ?」
「聞いただろ。やっぱり、その格好はまずいみたいだから」
 タンクトップの上にチェックの綿シャツ、黒いジーンズ。いつもとたいして変わらぬ服装だが、たしかに山歩きと言われても仕方がない。
「さあて、逢坂さんに合うようなもん、おますかいなあ」
 ふみは離れの座敷に上がり、油単のかかったたんすを調べ始めた。
「もう七月やから、薄ものやないと……」
 本庄家には母屋と離れと、奥の屋と呼ばれる三つの棟があり、そのほかに用途別に五つの蔵があった。
 離れは凛の祖父、本庄源太郎がおもに趣味の絵画や骨董を飾るのに使っていた棟で、彼の身の回りの品もそこに置いてある。亡くなってから三十年以上たつというから、もちろん凛は、写真でしか祖父を知らない。
「なかなか、しゃれたお人でしたわ。お召しものも、ご自分で見立ててはりましたなあ」
「榎木さん、ここのおじいちゃんのこと知ってるんか?」
「へえ。うちがお世話さしてもろたんは、二年ほどでしたけど」
 樟脳の臭いのする古い着物に袖を通しながら、将太はふみの思い出話に耳を傾けた。
 ふみは昔、本庄家で行儀見習いをしていたらしい。結婚して他県に移り、子供も生まれたのだが、何年か前に夫と死別し、故郷にもどってきたという。
「先代さんがおいでのときは、住み込みの女中やら庭仕事をする男衆もおりましてんけどなあ」
 たしかに、これだけの家だ。使用人が五、六人いておかしくない。そのうえ、この庭。草むしりだけで何日かかるだろう。
 これでも相続のおりに、かなりのものを手放したのだというから驚きだ。
「さ、これでよろしいやろ。ちょっと丈は短いけど、なんとか様になってますえ」
 ふみが額の汗をふきつつ、言った。
「どや、凛」
 将太は、縁側に向かって訊ねた。柱にもたれてすわっていた凛は、ちら、と目をやり、
「七五三みたいだね」
 と、遠慮会釈ない感想を述べた。
「……おまえなあ、そら言いすぎやで」
「そう? じゃ、行こうか。おばあさまがお待ちだよ」
 すたすたと玄関に向かう。ふみはくすくすと笑って、そのあとに続いた。
「七五三……かあ。せめて『馬子にも衣装』ぐらい言うてくれや」
 自分で自分をなぐさめながら、将太は離れをあとにした。

 「本庄多津どす」
 背筋をぴんとのばして、凛の祖母はそう名乗った。
 薄い灰紫の絽の着物をきちんと着こなし、風炉の前に座す姿は、とても八十にもなっているとは思えない。髪はほとんどが白く、顔や手もそれなりの年輪を刻んではいるものの、声のはりも、目の輝きも、決して老いを感じさせるものではなかった。
「せんだってから、凛がいろいろお世話さんになったようで、一度きちんとごあいせつせなならんと思うとりました。親御さんにお越しいただけなんだのは残念どすけど、こなたさんからよろしゅうお伝えしとおくれやすな」
「はあ。伝えます」
 将太は一礼した。
「それから、あの、これ……」
「なんえ?」
「おかあちゃんから……あ、いや、母から、預かってきたもんで。お口に合うかどうかわかりませんけど」
 そっと釣鐘まんじゅうを差し出す。多津はそれを一瞥して、
「いま出すもんやおまへんなあ」
「……すんません」
「下げんでもよろしおす。あとでいただきまひょ。……ふみ」
 水屋に声をかける。
「おみやをいただいたよって、母屋へ運んどいとおくれ」
「へえ。お預かりします」
 ふみは将太からまんじゅうの包みを受け取ると、茶室を辞した。
「遅うなりましたけど」
 多津は居住まいを正し、将太に向かってお辞儀をした。将太もあわてて頭を下げる。
 すでに薄茶手前の用意は整っていた。作法も知らぬというのに、将太は正客の位置にすわらされている。塗りの菓子盆の上には、色とりどりの干菓子。
 まいったなあ、ほんま……。
 将太は深いため息をつきつつ、とりあえず茶碗は二回まわすんやったな、と、わずかばかりの知識を必死でかきあつめていた。


 となりにすわっていた凛が小声で教えてくれたおかげで、なんとか菓子と薄茶が胃に納まったころ。
 にじり口の外から、ふみの声が聞こえた。
「大奥さま、よろしおすか」
「なんえ」
「松倉さんが、えらいことになって」
「えらいこと?」
「母屋で倒れはりましてん。朝から具合悪かったみたいで……家の人呼んで、いま病院に連れてってもらいました」
「そうか。ほな、お膳の用意は」
「材料は揃うてますねんけど、うちだけではちょっと……」
「仕方おまへんな。錦庵に電話して、座敷を取ってもろといて」
「へえ。ただいま」
 ふみの足音が遠ざかっていく。
「あの、おばあちゃん」
 将太が控え目に言った。多津は視線だけわずかに動かして、
「なんえ?」
「だれか倒れたって……病院行かんでええんか」
「松倉はうちの使用人だす。その必要はおへんやろ」
「使用人いうたかて……」
「松倉もええ年やから、ときどきこういうことはある。今度も二、三日養生したら良うなりまっしゃろ。そんなことより、出かけますえ」
 多津はすっくと立ち上がった。
「え、どこに」
「うちで食事をしてもらうつもりやったけど、でけんようになりましたよって、外に行きまひょか」
「けど、材料はあるんやろ。もったいないやんか」
 将太はしびれた足をさすりながら、言った。
「昼飯は、おれが作るわ」
「なに言うたはりますのん。ふみにもでけしまへんもんを」
「榎木のおばちゃん、ひとりではできんて言うただけやろ。おれ、手伝うわ」
 多津は将太を見据えた。
「……あほらし。客にお膳の用意をさせたとあっては、ええ笑いもんどす」
「そんなかたいこと言わんと。お茶もよばれたし、もうお客は終わりや。孫のダチが勝手に遊びにきとるんやと思うて。な? ……さあて、ほな、早よせないかんな。凛、台所はどこや」
「案内するよ」
 いささか尋常でない展開にも、凛は動じていないようだった。
「たいしたもんはできんけど、待っとってな」
 将太は多津に笑いかけた。多津は無言で、道をゆずった。