注意一秒、恋一生! by 近衛 遼




ACT5
 その日、逢坂家には母の皐月と四女のめぐみがいた。
「将太ーーーっ!! ちょっと待ち!」
 玄関のドアを開けたとたん、皐月のよく響く声が廊下を突き抜けた。
「そのまんま上がったら承知せんでっ」
 皐月がバスタオルを持って、どかどかと奥から出てきた。将太にタオルを投げつけて、
「ほれ、早よ拭き……あら、本庄くん」
 将太の陰に隠れるようにして立っていた凛に、皐月はやっと気がついたらしい。
「いやあ、あんたもずぶ濡れやないの。将太、ぼんやりしてんと、本庄くんにタオル貸したげえな」
「言われんでも貸すわい」
 将太は凛の頭にタオルをかぶせて、がしがしと拭いた。
「めぐみ! もう一枚バスタオル持ってきて」
 皐月が台所に向かって叫ぶ。しばらくして、
「二の宮さま、来てるの?」
 と、めぐみが嬉々として玄関に現れた。このごろは大っぴらに、凛のことをそう呼んでいるのだ。
「めぐみ、タオルは?」
「ああ、忘れたわ」
「役に立たん子やな、まったく」
 皐月はぶつぶつ言いながら脱衣所から大判のバスタオルを取ってきた。
「さっき私が帰ってきたとき使うたけど、これでええやろ」
 皐月は将太の肩にタオルを投げた。
「ざっと拭けたら、風呂入っといで」
「え、もう沸いとるんか」
「新湯とちゃうけどな」
 どうやら、皐月も雨にうたれて帰宅したらしい。
「着替えは自分で出しや。本庄くんの分もな。……本庄くん、悪いけど将太のでガマンしといてな。一応、洗濯はしてあるし」
 後半はまったく別人のような口調だ。
「はあ。すみません」
 凛はぺこりと頭を下げた。
「ほな、行こか。冷えてしもたわ」
 将太は凛の背中を押した。
「とりあえず、お客さんが先や」
「いっぺんに入ったらええがな」
 皐月が口をはさむ。
「うちは風呂だけは広いから、一緒に入っといで。その方が肩まで湯に浸かれるし、ぬくもるで」
「ええか? それで」
 将太は凛に訊ねた。
「べつに、どっちでもいいけど」
 白いバスタオルをかぶったまま、凛が答えた。
「そうか。おまえがええんやったら、かまへん。早いとこ入ろ」
 将太は凛の腕をとって、風呂場に向かった。


 広いとはいっても、家庭用のバスタブである。
 男ふたりが入るには多少無理があるかと思ったが、凛はまだ発育途上の子供のような体つきをしていて、少しひざを曲げれば余裕で湯船に浸かることができた。
 三十分ばかりしてふたりが風呂から出てきたとき、めぐみは夕方の情報番組を見ていた。
「はあー、今日もあかんかった」
「どうしたんや、めぐみ」
 オレンジジュースをコップに注ぎながら、将太が訊いた。
「この番組の現金プレゼント。毎週ハガキ出してるのに、なかなか当たらへんわ」
 めぐみはこのところ懸賞に凝っている。というのも、聖パウロ学園は原則として生徒のアルバイトを認めておらず、めぐみとしては自分の趣味のための資金を工面するのに苦労をしていたからだ。
「そら、こんなん何千通もハガキ来てるやろし……」
「いや、キーワードいくつも書かなあかんし、当たる確率は高いはずやねんけどなあ」
 めぐみはテレビをにらみつつ、メモ帳になにやら書き込んだ。
「ま、せいぜいがんばりぃな。……ほら、ジュース」
 将太は凛にコップを差し出した。が、なぜか凛はテレビの画面に見入っている。
「どうした? まさかおまえも、ハガキ出したんとちゃうやろな」
「帰れないな」
「へ? なんやて?」
「臨時ニュース」
 凛の視線の先には、大雨による崩落事故で列車が不通になったことを知らせるテロップが出ていた。
「これって、湖西線やで。おまえ、どっから高校通うてんねん」
 自分のことは山ほど話しているが、将太は凛の住所さえ、まだ聞いていなかった。
「大津」
「へ、滋賀県かいな」
 ということは、高校まで二時間ちかくかけて通っていることになる。
「列車があかんとなったら、あとは車やな。おれ、送っていったろか」
「道路もダメみたいやけど」
 めぐみが指摘した。テロップは、トンネル内の事故で通行止めになっている道路の情報に変わっていた。
「夜中ぐらいには、なんとかなるかもねー」
「しゃあないなあ。……ま、晩飯食べていけや、凛。特別に、おまえの好きなもん作ったるで」
 将太はジュースを飲み干した。
「さあて、なにがええ?」
 将太は凛の顔をのぞきこんだ。凛はコップを持ったまま、じっとしている。
「そんな真剣に考えるほどのこっちゃないやろ」
「わからない」
「わからんて、なにが」
「好きなもの」
「はあ?」
「いつも、出されたものを食べているから」
 それを聞いて、めぐみが目を丸くした。
「二の宮さまって、ほんとにいいお家の人なのねえ」
「ほな、おまえ、嫌いなもんは」
「さあ」
「……あんなあ。冗談はやめとけや」
「冗談なんか、言ってない」
 憮然として、凛は言った。
「出されたものは、きちんと食べるように言われてるんだ」
「だれに」
「おばあさまに」
 めぐみがひょいと肩をすくめた。要するに、あとはまかせたということだ。
「そうか。……ま、ええわ。適当に作るさかい。そのかわり文句言うなよ」
 将太は冷蔵庫の中を点検しつつ、メニューを組み立てていった。

 その日の夕食は、いつにもましてにぎやかになった。
「そしたら、本庄くんて、世が世ならお殿さまなんやねえ」
 長女のみゆきが筑前煮を食べながら、言った。次女のあゆみはいかリングにソースをかけつつ、
「武士階級やないから、お殿さまとは言わんやろ」
「あゆ姉、ソースかけすぎやで」
 将太が不本意そうに口を出す。
「ええやんか、これぐらい。さゆりみたいにタルタルソースに沈めるよりはましやろ」
「……さゆりねえちゃん、それ、やめてぇな」
 毎度のことだが、きつね色に揚げたはずのいかリングが、すっかり乳白色のソースにまみれている。
「あらあ、将太。これ、おいしいのに。レモン、もう少しもらえる?」
 これでは、いかの味などわからないのではないかと思えるが、当人は至極満足げな顔で食べている。
「本庄くん、ごはん、おかわりは?」
 皐月が給仕盆を差し出した。
「おかあちゃん、ええかっこして。いつもはお盆なんか使えへんのに」
 めぐみが茶化す。
「やかまし。余計なこと言わんでええ。……本庄くん、遠慮せんと、おかわりしてな」
「はい。いただきます」
 凛は素直に、茶碗を盆に乗せた。
「漬けもん、もうちょっと出そか。キュウリやったら、まだあるで」
 将太が訊ねた。凛はしばらく考えて、
「梅干し」
 と、答えた。
「へ? 梅干しがええんか? よっしゃ。ちょっと待ってな」
 流し台の下から、梅干しの入った壺を出す。
「あ、私も梅干し」
 あゆみが自分でごはんをよそいながら、注文した。
「塩昆布はないんか」
 ぼそっと、逢坂家のあるじ(すなわち将太の父)がつぶやいた。
「佃煮やったらあるけど」
 将太が冷蔵庫から小鉢を取り出し、父親の前に置いた。
「本庄くんも、よかったら食べてな」
 皐月がはずんだ声で言った。
「はあ、どうも」
 梅干しを少しずつ食べていた凛は、小さくうなずいた。
「やっぱり、育ちのいい人は食べ方も優雅やねえ」
 みゆきがしみじみと言った。
「それがうっとおしいって、断ったんはだれやったっけ」
 言いながら、あゆみは梅干し茶漬けをすする。
「ほっといて。ごはん食べててつまらん人は願い下げやわ」
「そんなことやから、なかなか話がまとまらないんじゃないのー」
 めぐみが最後通牒を突きつける。それが自分の死刑執行書にサインしたのだと悟った直後、めぐみは「ごちそうさまっ」と叫んで台所から姿を消していた。
「あいかわらず、せっかちねえ、めぐみは」
 さゆりの間延びした声が、しらじらしく流れる。みゆきは無言のまま煎茶をゆっくり飲んでから、両手をていねいに合わせた。
「ごちそうそまでした。……さ、洗い物でもしよ」
「え、みゆき姉、やってくれんのか」
 将太が顔を上げた。
「やったらあかんの」
「いや、べつに……ありがたいけど」
「ほんなら、ええやろ。空いた皿、下げるで」
 みゆきはてきぱきと片づけを始めた。
「凛、早よ食べ」
 こそっと、将太は耳打ちした。
「どうして」
「みゆき姉がおとなしゅう皿洗いなんかするときは、あとがこわいんや。早いとこ退散するに限る」
「……わかったよ」
 凛なりに事情を感じ取ったのか、茶碗に半分ばかり残っていたごはんを黙々と口につめこんだ。
「ごちそうさまでした」
「もういいの、本庄くん」
 みゆきが訊ねた。
「はい。ありがとうございました」
「ごちそうさん。ほな、凛、上に行こか」
 将太は凛に目配せして、腕をつついた。
「もうちょっと様子みて、復旧せえへんかったら泊まっていき。あした日曜やし、かまへんやろ」
「そうしぃな、本庄くん。むさくるしいとこやけど」
 皐月が上機嫌で賛同した。
「じゃあ、もう一度、電話をお借りします」
 凛は皐月にそう言って、廊下に出た。将太もあとに続く。
 結局、その日、凛は逢坂家に泊まることになり、二階の六畳間にふたつ蒲団が敷かれた。
「狭いけど、我慢してな。これでもちょっとは片づけたんやけど」
 パジャマに着替えつつ、将太が言った。
「おまえのおかげで、今日はすんなり上がらせてもらえたわ」
「え?」
「いつもやったら洗い物もせんならんし、女どもの話も聞かんならんし、なかなかたいへんなんやで」
「ふーん」
 凛は蒲団の上にすわって、なにやら考えこんでいた。
「いつも……」
「へ? なんやて?」
「いつも、あんなふうなの」
「あんなって……せやな、まあ、やかましいこっちゃで。女五人もおるさかいなあ」
「そう」
「びっくりしたやろ。ま、みんな悪気はないし、大目に見たってな」
「いいね」
「はあ?」
「おいしかった」
 短い言葉。それの意味するところを察して、将太は口をつぐんだ。
 そうか。こいつんちは、両親おらんかってんな……。
「……また、来いや」
「うん。おやすみ」
 凛は蒲団の中に入った。
「おやすみ。またあしたな」
 将太は凛の背中をながめながら、部屋の電気を消した。