注意一秒、恋一生! by 近衛 遼




ACT4
 「あーっ! 凛ー!! 凛やないか。どしたんや、今日は」
 歩道にすわって、いわゆる「ほか弁」を食べていた男が大きな声で叫んだ。
 本庄凛は、いまさら道を変えるわけにもいかず、そのまま男の前まで進んだ。
「こんにちは」
 とりあえず、あいさつをする。
「おう。えらい早いねんなあ。……あ、そうか。もう中間テストの時期やもんな」
 逢坂将太は弁当を手にしたまま立ち上がった。
「いまから帰るんか?」
「はい」
「なんや元気ないなあ。ヤマ外れたんか?」
「え……いえ、そんなことは……」
 試験のときにヤマをかけたことなどない。
「ほな、どしたんや。あ、もしかして腹へっとるんか? よかったら、これ食べ」
 将太は自分のナップサックの中から、アルミホイルに包んだものを取り出した。
「なんですか、これ」
「おにぎりや」
「でも、それ……」
 凛は将太の持っている弁当を見た。
「ああ、弁当はバイト先から出るんやけど、これだけやったら足らんからなあ。いっつも、おにぎり作ってくるんや」
「バイトって?」
「そこの角に、マンションが建つんや。いろいろ資材を運ぶトラックが通るから、見とかんとな」
 つまり、工事現場のガードマンらしい。
「今日は、シャケと梅干しと昆布やで。どれにする?」
 目の前に拳大のおにぎりを三つ差し出され、凛はおずおずとそのうちのひとつを指さした。
「梅干しか? これ、うちで漬けてん。酸っぱいけど、柔らこうてうまいで」
「……いただきます」
 そうは言ったものの、凛はすぐにはそれを口に運ばなかった。
「なんや。遠慮せんと食べぇな」
 再び歩道にすわって弁当を食べていた将太が言った。
「ここでですか」
「へっ? ……ああ、そうか。おまえ、缶ジュースも飲んだことないおぼっちゃんやったなあ。ええと、ほな……あっちに行こか」
 弁当の最後のひと口を頬張りながら、将太は立ち上がった。道路を横切って、向かい側にある公園の植え込みの中に入る。
「……こんなところを通るんですか」
 枝をかきわけて進む将太に、凛がぼやいた。
「近道やもん。ええやないか。ほら、あそこにベンチがある」
 お世辞にもきれいとは言いがたいが、地面よりはましだと判断し、凛はそこにすわっておにぎりを食べ始めた。
「どや。なかなか、いけるやろ」
 となりでシャケのおにぎりを食べていた将太が言った。
「はい」
 短く答えて、続きを食べる。
「ふわーっ、うまかった。ごちそうさんでした」
 凛がまだ半分も食べないうちに、将太はおにぎり二個を平らげていた。
「ちょっと待っとき。茶、買うてきたるわ」
「え……」
 凛が顔を上げたときには、将太はもう十メートルばかり離れた自動販売機の前に立っていた。ジーンズのポケットから小銭を出して、缶入りのお茶を買っている。
「あ、ウーロン茶でええか?」
 大声で訊ねる。いきなりのことで驚いたのか、近くを散歩していたシーズー犬がキャンキャンと吠えたてた。
「え、ああ、すまんすまん。びっくりさしたなあ」
 将太はしゃがみこんで犬に話しかけ、飼い主にも会釈してからベンチのところに帰ってきた。
「犬に怒られてしもたわ」
 言いながら、ウーロン茶を差し出す。
「コップないけど、我慢してな。おれの水筒の蓋でよかったら、使うか?」
 凛はしばらく缶と水筒を見比べていたが、やがて缶に手を伸ばした。
「このままでいいです」
「そうか。ほな、おれ、そろそろ行くわ。昼休み、短いねん」
「はあ。……ごちそうさまでした」
 凛は小さく頭を下げた。
「お粗末さん。あしたもこの時間か?」
「そうですけど」
「ほんなら、おまえの分もおにぎり作ってきたるわ。いくつ食べる?」
「え、でも……」
「にぎる手間は一緒や。二つか? 三ついるか?」
「……じゃあ、二つ」
「よっしゃ。まかしとき」
 将太は片手を上げて、もと来た道を帰っていった。
 凛はそれを見送りながら、自分もまた、あの植え込みの中を通っていかなくてはいけないのだろうかと考えていた。

 翌日、凛はその場所を通らなかった。
 意図的にそうしたのではなく、たまたま欠席していた級友の家に寄る用事ができたからだった。
 そして、さらにその次の日。
 中間テストの最終日、凛は一昨日とほぼ同じ時刻に、やはり歩道で弁当を食べている将太に出くわした。
「あーっ、凛! 大丈夫やったか?」
 将太は弁当を持ったまま、勢いよく立ち上がった。
「きのう、会わんかったから心配しとってんで」
「え、どうして」
「なんでって、そら、テスト中やのに風邪でもひいたんかと思て……なんともなかったんか?」
「きのうは、ちょっと用事があって……」
 凛は語尾をにごした。わざとではなかったが、結果的にすっぽかしたことになる。将太の一方的な約束であるにしても。
「そうかー。大事のうて、よかったわ。あ、せやせや。これ」
 将太はナップサックから浅葱色のハンカチに包んだものを取り出した。
「梅干しとかつおぶしにしといたで」
「え?」
「おにぎりや。二つでよかったんやろ」
「それは、きのうの話です」
 まさか、今日も余分に作ってきているとは。
「腹、減ってへんのか? なんか食べてきた……にしては、時間早いわなあ」
 ちらりと腕時計を見る。
「まあ、きのうのことは、きのうのことや。公園、行こか」
 将太は凛の腕をとった。例によって、植え込みの中をずんずん進む。
 とくに拒絶する理由も見つけられず、凛は黙ってそのあとに続いた。


 そんなことが何回かあって、凛は学校の帰りに将太と立ち話をするようになった。授業が午前中で終わるときなどは、公園で将太の作った弁当を食べたり、ラーメン屋やハンバーガーショップに行ったりもした。
 訊かれもしないのに、将太は自分のことをよくしゃべった。隠すことなど、なにもないという感じだ。
 いつも、ほとんど無表情で話を聞いていた凛だったが、将太が現役の大学生だと知ったときの反応は早かった。
「……ほんとに?」
 訝しげに、横を見る。
 場所は牛丼の専門店「吉野家」。凛は牛皿(牛丼の具のみ)を食べていた。
「なんや。疑っとるんかいな。ほれ、見てみぃ」
 特盛り牛丼をほぼ食べつくした将太が、ナップサックから学生証を取り出した。たしかに、関西では中堅所の大学の名が書かれている。
「おれが大学行っとるのって、そんなにおかしいか?」
 学生証を仕舞いつつ、将太は言った。
「なんか、似合わない」
 歩道橋の下で出会ってからひと月あまり。かなりくだけた口調になっている。
「似合わんて言われてもなあ」
「だって、ほとんど毎日バイトしてるじゃないか」
「昼間は週三日や」
「夜は?」
「……三日」
「合わせたら、週六日だね」
 ほらね、と言いたそうな顔。
「しゃあないやんか。学費稼がなあかんし」
「奨学金制度は?」
「あるけど……まあ、いろいろ問題が……」
「学力が足りないとか」
 なかなか辛辣だ。
「いや、つまり……入学んとき、親に金出してもろとるし、これ以上甘えるんも悪いと思て」
「ふーん」
 もう興味を失ったのか、凛は視線を皿にもどした。黙々と箸を運ぶ。
 凛が牛皿を食べ終わるころ、急に外が暗くなった。
「ひと雨くるかなあ」
 カウンターの中にいた若い調理士がつぶやいた。
 そのことば通り、窓にぼたぼたっと雨粒が当たったかと思うと、いきなりバケツをひっくり返したようなどしゃ降りになった。
「うわー、どないしょうかなあ。傘なんか持ってきてへんで」
 会計を済ました将太がぼやいた。凛とて、それは同じだ。
「しばらく雨宿りするしかないね」
「ここでか」
「だめなの」
「いや、かめへんと思うけど、もう食べてしもたし……」
 カウンター席だけの狭い店である。急な雨とはいえ、居座るのは気が引けるのだろう。
「じゃあ、帰る」
 凛はリュックをかかえると、外に出た。
「へっ? おい、ちょっと待てや」
 あわてて後を追う。
 外はシャワーを全開にしたような大降りだった。あっというまに雨が服を通り抜けていく。凛の白いカッターシャツももうすっかりびしょ濡れで、背中や肩にぴったり張り付いていた。
「おまえ、そのカッコで電車乗る気か?」
「仕方ないだろ」
「アホか。風邪ひくで。周りもええ迷惑や」
 将太は頭をかいた。
「あー、もう、濡れついでや。うちまで走ろか」
「え?」
「風呂、沸かしたるわ。ゆっくりあったまって、服乾かして、茶でも飲んどったら、そのうち雨も止むやろ」
 将太は凛の手首をつかんだ。
「商店街通って行こ。ほら、早よせえ」
 有無を言わさぬ力で引っ張られ、凛は見覚えのあるアーケードに向かって走った。