注意一秒、恋一生! by 近衛 遼




ACT3
 風薫る五月。といっても、下旬になると一足早く夏が来たのではないかと思うほど暑い日がある。
「ふわーっ、あっついなあ」
 将太は生物学の「ごんじじ」の講義を終えて、自宅に帰る途中だった。
 JRの駅から商店街をぶらぶら歩いていると、前方に見覚えのある後ろ姿。
「あーっ、なあなあ、あんた……」
 将太は小走りにその人物に近づいて、前に回った。
「やっぱりあんたかあ」
 いきなり180を超える大男に行く手を阻まれて、凛はゆっくりと顔を上げた。
「……どうも」
「もう学校終わったんか」
「はい」
「どこ行くんや。デートか? せやったら、あんまり話もできんなあ。約束の時間に遅れたら、女はえらい怒りよるからな」
 身に覚えがあるらしい。それも、山ほど。
「お宅に、伺うつもりでした」
「お宅? おれんちかいな」
 凛はうなずいた。
「でも、道がわからなくなって……」
「ほな、ちょうどよかったやんか。行こ行こ。あそこの八百屋の角を曲がって、もうちょっと行ったとこやねん。覚えとってや」
 将太は凛の腕をとって、歩きはじめた。
「あの……」
「なんや」
「手……」
「へ?」
「はなしてください」
「え、ああ、これか」
「すみません。ひとりで歩けますから」
「他人行儀やなあ。ま、ええけど」
 数日前に会ったばかりのふたりである。どう考えても「他人」、百歩譲っても「顔見知り」でしかないのだが、将太はまったく気にしていない。
 凛は将太のうしろを、はぐれないようについていった。将太にとって、このあたりはまさしく「庭」である。対して凛は通学のためにここを通るだけで、おせじにも地理に明るいとはいえないようだった。
「ほら、あそこや。ちょっと待ってな。鍵開けるわ」
 将太はジーンズのポケットからキーホルダーを取り出した。なぜか子供たちに人気のあるアニメのキャラクターがついている。
「……ああ、これか?」
 凛の視線に気づいて、将太は苦笑した。
「従姉妹んとこの子供がこれにハマっとってなあ」
「……それで、どうしてあなたが?」
「いやあ、その子がな、まだ幼稚園やねんけど『おにいちゃんにもあげる』言うて、自分が大事にしてたんをくれたんや。なんや、いじらしいやろ」
 彼女いない歴〇〇年の将太にしてみれば、ほろりときたのだろう。深く考えると危ないが。
「ほら、開いた。まあ、上がってえな」
 将太は凛を台所に招き入れた。
「適当にすわってや。なんか冷たいもんでも入れるわ。ええと……」
 と、冷蔵庫の中をのぞいて、
「あれえ、今朝作った麦茶がないやんか。……ったく、飲んだら次のん作っといてくれんと」
 ぶつぶつ言いながら、さらに奥をさがす。
「にんじんジュースしかあらへんな。まあ、ええか。はい」
 将太はテーブルの上に、にんじんジュースの缶を置いた。自分も一本取り出して、プルトップを開ける。ほとんど一気に飲み干してから、じっとしたままの凛を見やった。
「よう冷えとって、うまいで。……あ、もしかして、にんじん苦手なんか?」
「そういうわけじゃないですけど」
「ほな、遠慮せんと飲めや」
「あの、コップを……」
「へ、コップ?」
「缶のまま、飲んだことがないので」
「えっ、ほんまかいな。あんた、もしかしてええとこの子か?」
 将太は水屋からコップを出して、それにジュースを入れた。
「はい。これでええか」
「いただきます」
 凛は両手でコップを持って、ゆっくりとジュースを飲みはじめた。ひと口飲んでは休み、またひと口飲んでは休み。先日、一緒に朝食を食べたときもそうだったが、どうも飲み食いのペースが遅い。
「ごちそうさま」
 ていねいにコップを返す。
「おそまつさん。……で、今日はどないしたん」
 用件を聞いていなかったことにやっと気づいて、将太は凛の顔をのぞきこんだ。
「お礼に来ました」
「お礼? なんや、それ」
「このあいだの……」
「ああ、あれか。そんなん気にせんでええのに」
「そういうわけにも……。家の者も、ちゃんとあいさつしてくるように言ってましたし」
「家のもん?」
 父とか母というならわかるが、「家の者」とはどういうことだろう。
 将太の疑問に気づいたのか、凛は下を向いた。
「うちは、両親がいないので」
「……そら悪いこと言うてもたなあ。すまんすまん。気ぃ悪うせんといてな」
「あの、これ」
 凛はテーブルに菓子折を置いた。
「つまらないものですが」
「うおっ、すごいなあ。重箱みたいやんか」
 三段重ねの紫の折にのしがかけられ、色とりどりの水引きで飾ってある。
「それから、これ……」
 すっ、と、白い金封が差し出された。
「へ? なんや、それ」
「ですから……お礼です」
 将太は凛と封筒とを見比べた。凛は居心地悪そうに視線をそらした。
「いらんわ。こんなもん」
「え?」
「カネもらおう思うて、したわけやないからな。持って帰り」
 凛は明らかに動揺していた。断られるとはまったく思っていなかったようだ。
「ほら、早よ仕舞い」
 将太は封筒を凛の方に押した。
「来てくれただけで十分や。あ、けど、菓子はもろとこかな。うちは女が多いから、甘いもんはなんぼあっても足らへんねん。これも明日中にはなくなるやろなあ」
 女五人の胃袋は馬鹿にできない。
「でも……いったん出したものですし」
 凛はなおもそう主張した。将太は、ふーっと大きく息をついて立ち上がった。
「高校生がそんな生意気な物言いせんでええわ」
 将太の大きな手が、凛の左手をつかむ。凛は目を見開いて顔を上げた。
「はい、どーぞ」
 おどけた調子でそう言って、将太は凛に封筒をにぎらせた。細い手をぽんぽんと両手で叩く。
「たしかに返したで。家の人によろしゅう言うとってや」
「……はい」
「ほな、送ってこか。それとも、晩飯食べていくか?」
 もうすぐ六時だ。
「いいえ。帰ります」
「そうか。よかったら、また遊びに来いや」
「遊びにって……」
 凛は戸惑っているようだった。それはそうだろう。どう考えても、ふたりのあいだに共通点はない。
「こないだのとこまででええか? あ、ほんならついでに、酒屋行こ。父ちゃんの焼酎、切れとるわ。料理酒もなかったしなあ。今晩、なににしよかな。かあちゃんとあゆ姉は遅い言うとったけど……なあ、肉じゃがとカレーとどっちがええと思う?」
「……ぼくは、どっちでも」
 自分が食べるわけでもないのに、訊かれても困る。
「たらこも残っとるしなあ。……よし、肉じゃがにしよ」
「夕食も作るんですか」
「え? ああ、うち、ずっと共働きやったし、時間のあるもんが作ることになっとんねん」
 もっとも、このところはほとんど将太が作っている。適材適所と言えば聞こえはいいが、結局うまく使われているのかもしれない。
「あとは菜っ葉もんやな。ほうれん草か小松菜でごまあえでもして……」
 真剣な顔で夕飯のメニューを考えている大男を、白皙の少年はため息まじりに見上げていた。