注意一秒、恋一生! by 近衛 遼




ACT27
 結局、その日も将太は本庄家に泊まることになった。自宅と、それから忠義のアパートに電話を入れる。
「そんなわけで、悪いけどあしたのバイト……うん、埋め合わせは今度……え? また『花扇』の宴会コースかいな。しゃあないなー。ま、ええけど、飲み放題はなしやで」
 こちらの都合でバイトを代わってもらうのだ。少しぐらいの出費は致し方ない。将太は受話器を置いて台所へ戻った。流し台の前に立ち、食器を洗う。
 病院から帰ってきたのは、七時ごろだった。それから夕飯を作り、凛と一緒に食べた。冷蔵庫には法事用に用意したいろいろな食材がいくらか残っており、それなりに品数を作ることができたが、凛はそのほとんどに箸をつけなかった。出されたものは全部食べるように訓練されてきたはずの凛が。
 だいぶ、まいってるんやな。
 将太は思った。それはそうだろう。きのうと今日とで、凛の人生は大きく転回したのだから。
 多津は、凛の母親が本庄家を出ていってからずっと、その暮らしぶりを調べさせていた。先代の書き物机の中にあった興信所からの報告書は、全部で十六通。毎年、クリスマスの時期に届けられるその報告書には、一年間のあらゆる事項が書き込まれていた。
 自分の知らなかった母の十六年。それを目の当りにして、平静でいられるはずもない。事実を消化するだけでも、かなりの時間が必要だということは、将太にもわかった。
 食器を水切り籠に並べる。朝食用の米を洗ってざるに取る。そのほか、いろいろ下準備を済ませて将太が二階に上がったのは、十二時ちかくのことだった。
「なんや、まだ起きとったんか」
 凛は壁にもたれてすわっていた。CDプレイヤーからはクラシック音楽が流れている。聞き覚えのある旋律だ。
「なに聞いとるんや」
「チャイコフスキーのピアノ協奏曲。ベルリンフィルの」
「ベルリンフィル?」
「うん。いちばん、好きだから」
「そうかー。でも、そろそろ寝た方がええで」
「うん」
 やたらと素直だ。が、そのまま微動だにしない。
「……大丈夫か、おまえ」
「え?」
 わずかに、視線が動いた。
「いろんなこと、いっぺんに背負い込んでしもたからなー。おれには、なんもでけへんけど」
「いてくれるんでしょ」
「へっ?」
「ここに、いてくれるんでしょ」
「そら、まあ……おるけど」
「だったら……いいよ」
 くっきりとした二重の瞳が、将太に向けられた。
「え、あの……おれ……」
 またしても、「参考書」のそのシーンが脳裡に浮かぶ。
 阿呆。なに考えとんねん。人の弱みにつけこむようなマネはしたらあかん。凛かて、そんなつもりで言うたんとちゃうんやから……。
「将太」
「なっ……なんや」
 ふわり。
 覚えのある重みと温み。それが腕に中にあると実感するまで、かなりの時間を要した。
「りっ……凛……」
「一緒に、いて」
 理性は、そこで成層圏の彼方まで飛んでいってしまった。


 キスをした。これが現実なのかどうか、わからなかったから。
 あのときと、同じ感触。花火をしにいったときと。
 ああ、ほんまに、おまえはここにおるんやな。
 キスを重ねる。次第に深くなっていく。嘘みたいや。でも……。
 唇の離れる音。吐息が漏れた。どちらのものともわからなかったけれど。
 ええんかな、これで。口付けを続ける。首筋に、肩に、胸に。凛が身をよじる。
「どないした?」
 将太は顔を上げた。
「痛いよ」
「へ?」
「跡が……」
 凛は横を向いた。どうやら加減がきかなかったらしい。凛の鎖骨から胸にかけて、赤い標が散らばっていた。
「あ……すまん。つい……」
「気をつけて」
「……わかった」
 とは言ったものの、このまま続けていいものかどうか将太は迷った。件の「参考書」によれば、このあとにはあれがあって、あれがあって……で、最終的には……となる。流れは頭に入っているのだが、なにぶん同性相手の経験は皆無である。凛に少なからず苦痛を与えてしまうのは、わかりきっていた。
「どうしたの」
 凛の手が、将太の腕にかかった。
「ん。ちょっと……な」
「ごめん」
「え?」
「いいよ、べつに」
「なにが」
「将太のやりやすいようにして」
「あっ……アホか、おまえ」
 将太はがばっと上体を起こした。
「こーゆーことは、お互いに納得した上で進めなあかんやろ。どっちかが好き放題やったら、そんなんゴーカンとおんなじやで」
 凛は大きな目をさらに見開いて、将太を見上げた。
「せやから、どないしようかて思て……」
「いいんだよ」
 くすりと、凛は笑った。
「でなきゃ、こんなことになってない」
 凛が素肌を寄せてきた。明確にわかる感情の昂ぶりは、将太のそれと同じだった。ひざが上がり、体が開かれていく。
「凛……」
 抱きしめる。口付ける。そのあとは。
 流れに逆らうことは、もうできなかった。


 紅潮した頬と潤んだ瞳。もの言いたげに開かれた唇から漏れるのは、言葉にならぬ声だけだ。
「……あ」
 小さな叫び。細い体が震える。中がひときわ熱くなった。
 白い肩をがっしりと掴む。何度目かの深い口付けとともに、将太はありったけの思いを凛にぶつけた。


 翌朝。
 凛は八時になっても目を覚まさなかった。仕方なく学校に欠席の連絡を入れる。朝食の用意をしてから、ふたたび二階に上がったが、凛はまだ死んだように眠っていた。
 昨夜のあれこれを思い出す。途中まではなんとかセーブできたのだが、凛が首に手を回してきたあたりから歯止めがきかなくなった。
 やっぱり、調子に乗りすぎたかな。
 将太は枕元にすわって、凛の目覚めを待った。
 早く起きてほしいという気持ちと、もうしばらく眠っていてほしいと思う気持ちが半々だった。目覚めたとき、凛がどんな顔をして自分を見るか、少し不安だったから。
 凛も自分を求めていたのだとは思う。けれど、それは単に気の迷いだったのではないか。多津のことと、自分の母親のことで不安定になっていた心を落ち着かせるためだけに、あんなことを……。
 ぱちりと、凛の目が開いた。黒目がちの、大きな瞳が朝の光を吸ってつややかに輝いている。
「あ……」
「おはよう」
 抑揚のない声で、凛は言った。
「おっ……おはよ。あの……大丈夫か?」
「なにが」
「え、いや、その……体のこっちゃけど」
「大丈夫なわけないだろ」
「そっ……そら、そうやな。あの、おれ……」
 がばっ、と、将太は頭を下げた。
「すまんっ! この通りや」
 畳に額をすりつけて叫ぶ。
「勝手なことして、ほんまに悪かった!」
 そのままの姿勢で、言う。
 十秒、二十秒。いらえはない。
 怒っとるんかな、やっぱり。三十秒を過ぎようとしたころ、将太はそろそろと顔を上げた。凛は蒲団をかぶって、将太に背を向けていた。
 まあ、しゃあないか。あんなこと、してしもてんから。
 将太は小さくため息をついた。そのとき。
「おなかがすいた」
 はっきりとした口調で、凛が言った。
「へっ?」
「おなかがすいた。朝食、持ってきて」
「え……ここにか?」
「歩けない」
「あ、そっ……そうやな」
 その意味を察して、赤面する。
「わかった。いま、持ってくるさかい。もうできてるんや。味噌汁あっためるあいだ、待っといてな」
 よし、とにかくメシや。凛が食べたいって言うてるんやから。
 将太はそそくさと部屋を出た。ドドドドドッ、と勢いよく階段を下りる。
 その足音を聞きながら、凛はひとり、蒲団の中で笑いをこらえていた。