注意一秒、恋一生! by 近衛 遼




ACT26
 両親の馴れ初めや、その後の経緯については凛もある程度は聞かされていた。多津の反対を押し切って結婚した母。その母の立場を慮って本庄家の養子となった父。
 凛が生まれてすぐに、父は本庄家を出た。その直後に、多津は養子縁組を破棄している。
 本庄という名の重圧に耐えられなかったのだろう。凛はそう思っていた。自分でさえ、何度も逃げ出したくなったのだ。だから、それに関して父を責める気にはなれなかった。
 だが、母のその後については、凛はなにも知らされていなかった。
『あんたの母親は、もうおらん』
 凛の問いに対して、多津はそう言った。あれはたしか、幼稚園のころ。
 そうか。もう、いないのか。
 漠然とではあるが、納得してしまった。ないものを求めても無駄だと。
 それからは、多津に母のことを訊くことはなかったし、だれも凛に母の事を話さなかった。いまにして思えば、多津が緘口令を敷いていたのかもしれない。
「かあさんは、生きているんですね」
 単刀直入に、訊いた。多津は微動だにしなかった。凛は座敷机をはさんで多津と対峙した。
「答えてください」
「そないなこと、答える必要はおまへん」
「おばあさま!」
「誕生日も迎えてへんあんたを置いて出ていったようなもん、もう本庄の家とはなんの関係もない」
「……出ていった?」
「そうどす。あんたの母親は、あんたの父親を選んだんえ」
 家も、子供も捨てて。
 言外の言葉が突き刺さる。凛は唇を結んだ。
 ならば、あの手紙はなんだったのだろう。封筒だけしか残されてはいなかったけれど。あれはたしかに、母から多津に宛てたものだった。書簡は抜き取られていたが、少なくとも母は、この家を出たあとも多津と連絡をとろうとしていたはずなのだ。
「……おばあさまが、そうさせてしまったんじゃないんですか」
「なんどすて」
「おばあさまにとって大切なのは、本庄の家だけなんだ。だから、ぼくが生まれたらすぐにとうさんを追い出して、とうさんのことを好きだったかあさんも……」
「おだまり!」
 ばん、と、多津は座敷机を叩いた。
「あんたになにがわかる! 私はこの家に生涯を捧げてきたんえ。先代さんのご恩に報いるためには、宗子と宗子の血を引いたあんたを守らなあかんて思うて……それやのにあの子は、本庄を捨てたんどす。あんたも私も、全部……」
「捨てたいよ、ぼくだって!」
 言ってしまった。とうとう、言ってしまった。
 抑えられなかった。どうしても。
「……そう、か」
 抑揚のない声で、多津は言った。凍りついたような顔。遠い目。凛を通り越して、過ぎた日を見ているかのような。
「あんたも……か」
 きつく目を閉じる。しばらく、多津はそのままでいた。
 言い過ぎたかもしれない。そうは思ったが、一度出した言葉は戻らない。覆水盆に返らず。なかったことにはできないのだ。
 凛はこぶしを握って、沈黙の中にすわっていた。しばらくして、多津はゆっくりと目を開けた。
「宗子は、札幌におる」
「え……」
「会いたいんやったら、勝手にしよし」
 すっくと立ち上がる。そのとき。
「……」
 まるで糸がきれたように、多津はその場に倒れた。


 ぽたり。ぽたり。
 点滴はあいかわらず、一定のリズムで落ちている。
「なんの関係もないっておばあさまは言ったけど、それでもずっと、かあさんのことを気にしていたはずなんだ。だから、いま、かあさんがどこにいるかも知ってた。それなのに、ぼくは……」
 捨てたいと言ってしまった。本庄の家を。多津を。これまでの十七年間を。
「よかったやんか」
 将太は言った。
「……よかった?」
「おまえのおかあちゃん、生きとるんやろ? どこにおるかもわかってんから、よかったやんか。な?」
 いつもの顔が、そこにあった。まっすぐに自分を見つめる瞳が。
「そら、まあ、おばーちゃんとおまえのおかあちゃんのあいだには、いろいろと複雑な事情があったんやろけど、そんなもん、おまえには関係ないやろが」
 将太は断言した。
「おまえにとっては、おかあちゃんはおかあちゃんやし、おばーちゃんはおばーちゃんや。難しゅう考える必要はないで」
「……きみは、単純でいいね」
 思わず、言ってしまった。将太はそれを気にするふうもなく、
「考えすぎたら、ロクなことないからなー。人間、正直がいちばんや」
「でも、ぼくはおばあさまを傷つけてしまった」
「傷つけてやろう、て思うて言うたんとちゃうやろ?」
「……そりゃ、そうだけど」
「ほな、ええやんか。おまえは、ほんまの気持ちを言うただけや。それをどう受け取るかは、相手次第やからな」
「将太……」
 なんだか、急に力が抜けた。そうか。いいのか。思うことを口にしても。
「おばーちゃんだけやのうて、おまえもずいぶん無理しとってんな」
 さりげなく、核心をついてくる。そして、それ以上は追求しない。
 凛は将太の手に自分の手を重ねた。ぎゅっと握る。一瞬、将太が手を引きそうになったが、さらに強く握ってそれを遮った。
「ありがとう」
「へっ……」
「いてくれて」
「え、あ、べつに、おれはなんにも……」
 さっきまでの落ち着きはどこへ行ったのか、将太はしどろもどろになって、視線をそらした。
 失礼なやつだな。せっかく「本当の気持ち」を言ったのに。
 凛は手をはなした。将太はぱっと立ち上がり、
「なっ……なんか、のど、かわいたなー。ジュースでも買うてくるわ」
 わざとらしくそう言って、病室を出ていく。凛は苦笑しつつ、その背を見送った。
 本当に、いてくれてよかった。ひとりだったら、いまごろどうなっていたかわからない。母が生きていたということだけでなく、乳飲み子の自分を置いて家を出たという事実に。
「凛」
 はっきりとした、多津の声。凛ははっとしてベッドを見遣った。多津は目を閉じたままだった。
「往(い)んだら、先代さんの書き物机を調べてみよし」
「おばあさま……」
「鍵は仏壇の奥に仕舞うてある。あとのことは、あんたの好きにしたらよろし」
 それだけ言うと、多津は顔をそむけた。
『勝手にしよし』
『好きにしたらよろし』
 そう言う多津の、本意は痛いほどにわかる。自分は多津に育てられたのだから。
 会いたいとは思う。どんなふうに暮らしているのかも知りたい。自分を置いて本庄の家を出たときのことも聞きたい。でも。
「おまたせ〜」
 勢いよくドアが開いて将太が入ってきた。そのうしろに、ふみもいる。
「売店出たとこで、会うたんや。あ、おばーちゃん、気ぃついたんか?」
 目を閉じているというのに、なぜわかったのだろう。多津はちらりと将太を見遣り、
「えらい世話かけましたな」
「なに言うてんねん。おれは救急車呼んだだけや。それより、たいしたことのうてよかったなあ。これからは薬、飲み忘れたらあかんで」
 いつものごとく遠慮会釈なくそう言って、将太はサイドテーブルの上にジュースやお茶の缶を置いた。
「なにがええかわからんかったから、適当に買うてきてん。おばーちゃんもなんか飲むか?」
 多津やふみを相手に他愛もないことを話し続ける将太を見ながら、凛はあらためて、その存在の大きさを実感した。