注意一秒、恋一生! by 近衛 遼




ACT28
 あれから、十日が過ぎた。
「おはよう」
「あっ……ああ、おはよ。気ぃつけてな」
「うん」
 工事現場のバイトのある日の、朝の情景。いままでとまったく変わらない。夕方も同じだ。
「さようなら」
「え、ああ、またなー」
「うん。じゃあ」
 ときおり、多津の様子やら学校のことなどを立ち話するのも、これまでと同じ。そう。同じだった。
 次の約束をするでもない。ただ、淡々と日々が過ぎていく。
 やっぱり、あれは一時の気の迷いやったんかな。あのあと、夕方には多津が退院してきて(検査の結果、異状がなかったからと言って半ば強引に退院したらしい)、ゆっくり話をするヒマもなかった。
 だいたい、自分は凛に「好きだ」のひとことも言っていない。それに、凛の気持ちだってまだ聞いていないのだ。そりゃまあ、ああいうことがあったわけだから、嫌われてはいないと思うが。
 せやけど、なあ……。
 将太はため息をついた。深い仲になったにしては、いまの状況はどうもよくわからない。はじめてキスをしたときも、似たような感じだった。凛の気持ちが掴めなくて、ずいぶん悶々としたものだ。
「おーい、青少年、なにシケたツラしとんねん」
 いきなり、背中をばんっ、と叩かれた。
「うわ、なんやねん、忠義。危ないやろが」
「おまえが、これぐらいでケガするようなタマかいな。で、どないした。姫さんとケンカでもしたんかいな」
 あいかわらず、鋭いところを突いてくる。
「ケンカ……したわけやないねんけどな」
「ほんなら、なんや。もしかして、どない言うてコクるか悩んどるんか?」
「コクるて……まあ、それもあるけど」
「はっきりせんやっちゃなー。要するに、なんやねん」
「いや、その……じつはな」
「うん」
「して……しもてんけど」
「はあ? またチューかましたんかいな。それがどないしたっちゅうねん。べつに姫さんかて……」
「ちゃう」
「へ?」
「チューだけやのうて……」
「ストーップ!! ちょっと待て」
 忠義は将太の口を手で押さえた。
「……ゆーっくり話、聞いたるさかい」
 忠義はじつにきれいにウィンクを飛ばした。
「場所、替えよな」
 たしかに、工事現場の更衣室でする話ではなかった。将太は無言のまま、こくこくと頷いた。

「なんちゅーか、まあ、その……おめでとサン!」
 古ぼけたアパートの中。法事のあとのあれこれを聞き終えた忠義は、缶ビールを高々と掲げてそう言った。
「おめでとうって言われてもなあ」
 ため息まじりに、将太。コーラの缶をことん、と置いて、
「なんか、おれ、夢見てたみたいで」
「アホ。おまえ、姫さんのことわかっとるようで、わかってへんなー」
「なんやねん、それ」
「あのなあ、姫さんが弱いとこ見せられるんは、おまえだけやねんで」
「うん」
「……うん、て、おまえ、それがどれほどすごいことか、わかっとるんか?」
「え、せやから、おれは『本庄』の家とは関係ないもんやから……」
「それだけやったら、俺もそうやろが」
 にんまりと、忠義は笑った。
「俺かて『本庄』なんかどうでもええ。ただ、姫さんが持っとる才能に惚れとるんや。つねにニュートラルな感性とか、ピアノの腕とか。もちろん、あの外見は最高や。けどな」
 ぴしっ、と、人差指を立てる。
「おまえは、違う」
「違うて……」
「おまえは、姫さんの核の部分に入り込んだんや。もう、逃げられへんでー」
 逃げる? おれが、凛から?
 そんなこと、せえへん。
『一緒に、いて』
 凛がそう言うてくれるかぎり。おれは一緒におる。凛のそばに、ずっと。
 おもむろに、将太は立ち上がった。
「おおきに。またなっ」
 飲みかけのコーラを置いたまま、アパートを出る。弾けたような笑い声が聞こえたが、そんなことは気にしないことにした。
 言おう。凛に。唐突でもいい。好きやって言うんや。会いたいって言うんや。こっちが言わんかったら、凛はなんにも返してくれへん。そんなこと、とっくにわかっとったはずやのに。
 人通りがないのを確認してから、携帯電話を取り出す。
「……あれ?」
 電源が入らない。しもた。ゆうべ充電しとくの忘れたから……。
 仕方なく公衆電話を探した。こんなときにかぎって、なかなか見つからない。携帯電話の普及で設置台数が減ったとは聞いていたが、これほどとは思わなかった。
「あった!」
 シャッターの下りたタバコ屋の軒先。落書きだらけのボロボロの公衆電話。
 壊れてへんやろな。確認しつつ、テレホンカードを差し込む。電話番号を押す。呼び出し音が、二回、三回。四回目が鳴ったところで、
「はい。本庄どす」
 ふみだった。
「あ、おばちゃん? 逢坂です」
「ああ、将太はん。どないしはったん」
「凛、帰っとるかな」
「いま、お夕飯を召し上がってますけど」
 しまった。本庄家の夕飯は午後六時からだった。
「あ……ほな、またあとで……」
「ちょっと待っとおくれやす。これ、公衆電話からどっしゃろ。急なご用件やったら、かけなおしていただくのもなんやし」
 厳密に言えば急用ではなかったのだが、この際、ふみの好意に甘えることにした。
「ごめんな、おばちゃん」
「いややわ。そんな気ぃ遣わんと。凛さん、お呼びしてきますよって」
 保留音が流れる。リリカルな音色が、やけに大きく響いた。
「はい」
 凛の声が耳に飛び込む。
「あ……凛、おれやけど」
「うん」
「あの、おれ、ずっとおまえのこと……」
 自分でも気恥ずかしいような台詞で、将太は凛に、いわゆる「愛の告白」をした。

 そして、日曜日。
 ふたりは、淀川縁の遊歩道にいた。落ち葉がかさかさと足元を鳴らす。
「おばあさまから、いろいろ話を聞いたんだ」
 凛はひっそりと言った。
「かあさんはね、おばあさまの子供じゃなかったんだって」
「え?」
「おじいさまとおばあさまのあいだには、長いこと子供ができなくて……で、周りからいろいろ言われたらしいんだ」
 その話は、以前ふみから聞いたことがある。
「おじいさまはそれを不憫に思って、養子をとることにしたんだけど、実子ではないことで、またおばあさまが肩身の狭い思いをしてはいけないからって……」
 本庄源太郎は奥の屋と呼ばれる別棟に多津を移し、余人を寄せつけることなく一年あまりを過ごした。そして、多津は「我が子」とともに母屋に戻った。
「だから、戸籍上はかあさんは、おじいさまとおばあさまの実子ということになってるんだけどね」
 そのことを、凛の母親が知っていたかどうかは定かではない。ただ、多津が本庄家を去る娘を強行に引き留めなかった心情はなんとなくわかる。
「おばあさまは、覚悟を決めていたんだと思う」
「覚悟?」
「うん。本庄の家が残るにしろ残らないにしろ。ただ、あきらめるわけにはいかなかったんだよ。おじいさまが、おばあさまのためにしてくれたことを思えば……」
 先代さんのご恩に報いるために。
 多津はそう言った。あれは、こういうことだったのか。
「おまえ、ほんまに重いもん背負い込んだな」
「うん、まあね」
 意外と軽い調子で、凛は言った。
「でも、いいんだ」
「え?」
「だって、ひとりじゃないし」
 つややかな瞳が向けられる。
「ずっとそばにいてくれるんだろ」
 先日の電話の台詞をそのまま使われた。途端に顔が熱くなる。
「違うの?」
 拗ねたような口調。将太はぶんぶんと頭を振った。
「違わへん。おる。おれ、おまえのそばに、ずーっとおるから……」
 うわずった声でそう言う将太を見遣って、凛はさも可笑しそうにくすくすと笑った。

 ほんまやで。
 ずっとおるから。だから。
 苦しいときは苦しいて。悲しいときは悲しいて。全部、言うてな。おれも全部言うから。

 十一月の、やけに暖かな日差しの中。
 恋人たちはそれぞれの思いを胸に、新たな一歩を踏み出していた。



  (THE END)