| 注意一秒、恋一生! by 近衛 遼 ACT25 将太は廊下に正座していた。「ここにいて」と凛は言った。「待っとるから」と自分は言った。だから待つ。 本当は一緒に中に入りたかった。しかし、それは自分が踏み込んではいけない領域だ。 『べつに、どっちでもいいよ』 なにかにつけてそう言っていた凛が、いま、自分の意志に従って行動している。 時間がたつのが、やたらと遅かった。襖の向こうでどんな会話が交わされているのか、将太にはわからない。もう少し近づいて聞き耳を立てれば聞こえるのかもしれないが、そんなことをする気は毛頭なかった。 どれぐらいたっただろう。そろそろ足がしびれてきたころ。 「おばあさま!」 切羽詰った叫び声とともに、ごとん、と、なにかが倒れる音がした。 あわてて立ち上がる。ひざが笑って、危うく襖に激突しそうになったが、かろうじて態勢を立て直し、将太は多津の私室に飛び込んだ。 「おばあさま? おばあさま!」 凛は多津の背を抱えるようにして、すわりこんでいた。 「凛っ、どないした?」 「おばあさまが、急に……」 多津は、畳に手をついて全身を震わせていた。額には汗がにじんでいる。頬は紅潮していて、呼吸が異様に荒かった。いったいどうしたのだろう。多津の年齢から言って、なにかしらの持病があってもおかしくはないが。 「ちょっ……ちょっと待っとけ。榎木のおばちゃん呼んでくる」 将太は廊下に走り出た。ふみの名を叫びながら、台所へと向かう。 「おばちゃん! おばちゃん、たいへんや!」 ただでさえ大きい将太の声である。すぐに、ふみが台所の上がり口から顔を出した。 「なんどすか、将太はん。そないな大声出して」 「おばーちゃんがおかしいねん」 「大奥さまが?」 ふみは、さっと顔色を変えた。 「凛と、なんか話しとってんけど……」 皆まで聞かず、ふみは将太の目の前を通りすぎた。将太もその後を追う。 「大奥さま!」 転がるような勢いで座敷に入り、多津の顔を覗き込む。 「大奥さま、しっかりしとくれやす!」 ふみの声にも多津は答えなかった。いや、答えられなかったのだろう。崩れるように、その場に倒れた。 「将太はん、救急車!」 「え……」 「119番どすがな。早う!」 いつになく甲高い声で、ふみは叫んだ。 あとから聞いたところによると、多津はここ五年ばかり、高血圧の薬を服用していたらしい。定期的に検査を受け、投薬を続けていれば日常生活に支障はない程度ではあったが、なんといっても高齢である。くれぐれも注意するようにと言われていた。 「……知らなかった」 病院の待合室で、凛は呟いた。多津の性格からして、たとえ身内にでも自分の弱みを見せたくなかったのだろう。事実、多津が医者にかかっているのを知っていたのは、ふみだけだった。 「大奥さまは、だれにも言うな、ておっしゃって……。凛さんが一人前になるまでは、自分が目ぇ光らしとかなあかんて思うてはったんどっしゃろ」 ふみは小さく息をついた。 本庄家は地元の名家である。資産は莫大なものだろう。先代の縁戚や分家筋につけこまれてはかなわないと思ったのかもしれない。 「今度のご法事のことでは、えらい気ぃ遣うてはりましたからなあ。福井の和歌子さまや岐阜の佐都子さまが、ご法事にかこつけてなんぞ言うてきはるかもしれんて……。まあ、実際、言うてきはりましたし、ご心労は相当のもんやったと思いますえ」 「福井の、っちゅうと、きのうおれが出た電話の……」 将太が口をはさんだ。 「へえ。和歌子さまいうのは、先代さんのお姉さんにあたるかたで、先代さんが亡くなったときにひと悶着おましてな」 ちなみに佐都子というのは先代の妹で、二人は、自分たちも「本庄」の家から出た者なのだから、遺産を受け取る権利があると主張したらしい。 むろん、法的にはなんの根拠もない。京都から嫁して、地元に後ろ楯のいない多津を軽んじた上での振るまいだった。 『本庄の家は私と宗子が守りますよって、どなたさんもお引き取りください』 多津は白い喪服を着て、そう宣した。若狭の婚家から葬儀のために帰省していたふみは、その一部始終を見ていたという。 「なんでも、おひとりで抱え込んでしまうおかたやから……。私らでは、なんのお役にもたてまへんしなあ」 寂しげに、ふみは言った。 なんや、哀しいな。 将太は思った。大きな家を守るために、ほかのたくさんのものを犠牲にしなくてはいけないなんて。近しい人にさえ、本当の気持ちを告げられないなんて。 ふみにしても、料理人の松倉にしても、多津のことを慕っている。それでも、多津は「家長」であるがゆえに自分の弱い部分をさらすことができないのだ。 そして、それは凛も同じだった。いずれ「本庄」の名を継ぐ。そのためには、つねに完璧でなければならなかった。だから、感情の動きを封じていたのかもしれない。ふつうに喜怒哀楽を感じるのがつらかったから。 それなら、わかる。いままでの凛の行動が。言動が。それらはすべて、自分をガードするために必要だったのだ。 しんどかったやろな。いいや、これからも……しんどいんやろな。おばーちゃんがおるうちはええけど、おまえひとりになったら。 そんなことを考えながら、凛を見る。あいかわらずの白い頬。唇の色も、ほとんどなかった。 「凛……」 思わず肩に手をのばしかけたとき、処置室のドアが開いた。凛はさっと立ち上がり、 「先生、祖母の具合は……」 「もう大丈夫ですよ」 およそ緊迫感のない様子で、その医師は言った。とつとつとした口調で語を繋ぐ。 「どうやら、朝の薬を飲むのを忘れていらしたみたいですね。普通、それぐらいならここまでにはならないんですが、今回はなにかストレスになるようなことがあったのかもしれませんねえ。まあ、とりあえず今日は泊まっていただいて、様子を見ましょうか」 「……よろしくお願いします」 凛は固い表情のまま、頭を下げた。目の前を、ストレッチャーに乗った多津が運ばれていく。 「ほな、私、いっぺんお屋敷へ帰ってきます。入院しはるんなら、身の回りのもんとか用意せなあきまへんし……。将太はん、凛さんと大奥さまのこと、よろしゅうにな」 そう言うと、ふみは足早にその場をあとにした。将太は凛の背を支えるようにして病室へと向かった。 多津はなかなか目を覚まさなかったが、呼吸はすっかり落ち着いてきた。きっと薬が効いているのだろう。 ベッドの横で、凛はじっと多津を見つめていた。長い沈黙。空調の音だけが、妙に大きく聞こえた。 「将太」 ずいぶんたってから、ぽつりと凛が呟いた。 「ん?」 「ぼく……ひどいことを言った」 「おばーちゃんにか?」 「うん」 「そうか」 「だから、おばあさまは……」 「そら、ちゃうやろ。さっき先生も言うとったやんか。おばーちゃんが薬を飲み忘れたんやろ、って。せやから、おまえのせいとちゃう」 「でも……」 「おまえだけのせいやない」 微妙に、言い方を変える。凛にも、それはわかったらしい。こくりと小さくうなずいた。 ぽたり。ぽたり。やけにゆっくりと点滴が落ちる。ぼんやりとそれをながめていると、凛の手が将太の上着の裾を掴んだ。 「凛?」 「さっき……かあさんのこと、訊いたんだ」 そうだろうと思っていた。黙って、次の言葉を待つ。凛はしばらく逡巡してから、多津とのやりとりを話し始めた。 |