注意一秒、恋一生! by 近衛 遼




ACT24
 宗子。それが、凛の母親の名前。
 出ていった、と多津の弟は言った。なら、いまどこにいるのだろう。
「ずっと……死んだと思ってた」
 将太の腕に上体を預けたまま、凛は呟いた。
「だれも、なにも言ってくれなかったから」
「なにも?」
 幼な子にとって親がいないということが、どれほどつらいことか。将太にも容易に想像できる。その寂しさを口にすることもできずに、凛はいままで生きてきたのか。
 たしかに、生活に困ることはなかった。衣食住は十分すぎるほどに足りている。しかし。
 人はパンのみにて生きるにあらず。それだけでは、心の渇きは癒えない。
 なぜ、多津は凛に母親が生きていると知らせなかったのだろう。仮にも自分の娘なのに。
「どうして、いまになって……」
 消え入るようにそう言って、将太の胸に顔を埋める。肩が小刻みに揺れていた。ほんのりと湿った髪の匂いと、密着した体温。
 あかんで。
 将太は自分に言い聞かせた。
 いま動いたらあかん。顔見てもあかん。そんなことしたら、おれは……。
『……』
 声が聞こえたような気がした。必死に自分を呼ぶ声が。
「凛」
 深呼吸をしてから、将太は言った。
「おれ、ここにおるから」
 そうや。どこにも行けへんから。
「心配せんと、早よ寝ぇな」
 できるだけ自然に、凛の肩をぽんぽんと叩く。
「将太」
 顔が上がる。眼前に、黒目がちの大きな瞳。
「きみって、ほんとに……」
「へ?」
「いや……ほんとに、いてくれるの」
 窺うような眼差しが向けられた。
「え……あ、うん。もちろんや。寝ずの番でもなんでもしたるで」
 夕方まで講義を受けたあと、夜間工事のバイトに行くこともある。一晩ぐらいの徹夜はどうということもない。
「そう」
 ほんの少し口元がゆるむ。
「じゃあ、頼むね」
 将太の腕から、細い体が逃げた。
「頼むて、なにを」
「寝ずの番をしてくれるんだろ」
 完全に、いつもの口調だった。
「おまえなあ、それは言葉のアヤっちゅうもんで……」
「冗談だよ。……おやすみ」
 くすりと笑って、凛は蒲団の中に戻った。先刻と同じように、蒲団をかぶって背を向ける。
 すぐに、規則正しい寝息が聞こえ始めた。将太はキツネにつままれたような気持ちで、かすかに上下する蒲団を見つめた。
 結局のところ、なんやったんや。
 ついさっきまで腕の中にあった重みと温みを反芻しつつ、将太は深いため息をついた。


 翌朝。将太は凛に起こされた。
「いつまで寝てるの。もう、ふみさんは台所に入ってるよ」
 そう言う凛はというと、すでに着替えを済ませている。将太はあわてて、寝床から飛び起きた。
 客間に泊まっていたのは、計五名。
 朝食のあいだ、多津も凛もほとんど無言だった。親戚の者たちがなにごとか話しかければ、そつのない返事を返してはいたが。
 もっとも、そういうことはめずらしくもなかったのだろう。皆、当たり障りのない話題を回して場を繋いでいる。
 おれやったら、こんな会話、三分ともたへんな。
 昨日もそう思ったが、今朝はさらにその感が強かった。言葉を転がしているだけのやりとりは、正直言って疲れる。
 朝食後、客たちは三々五々、本庄家をあとにした。最後のひとりがハイヤーに乗り込んだのが、午前十時。凛と将太はそれをきっちりと見送り、ふかぶかと頭を下げた。
「あーあ、やーっと終わったなあ。……て言うても、まだ後片づけは残っとるけど」
 蒲団を上げて、掛け布やシーツを洗って。ふみ一人では、かなり重労働である。とりあえず洗濯物を干すぐらいは手伝おうと、将太は思っていた。
「いつまで……」
 例によって、うっかりしていたら聞き逃しそうな声が横から聞こえた。
「ん?」
「いつまで、いるの」
「おれか? 今日中には帰るつもりやけど」
 あしたは講義もバイトも入っている。まあ、いざとなったら始発で帰ってもいいのだが。
「……そう」
 つい、と踵を返し、凛は母屋の中へと向かった。
「え、おい、ちょっと待てや」
 どうやら、機嫌を損ねてしまったらしい。
 昨日ほどではないが、凛はいまだに不安定な状態だった。そのことは将太にもわかっていたが、ではどうすればいいかというと、明確な答えは出ていない。それどころか、ゆうべの凛の顔が脳裡から離れず、自己嫌悪におちいることしきりであった。
『うそじゃないなら、ここにいて』
 マジで、危なかったよなあ。
 自分でも、よくあのとき踏み止まったと思う。はずみで背中に手を回していたら、そのまま一線を越えてしまっていたかもしれない。男同士の恋愛が成立するかという一般論はこの際おいておくとして、自分が凛に惚れているのは、まぎれもない事実だったから。
 しゃあないよな。
 廊下を奥へと進む凛の背を見ながら、将太は思った。ひと目惚れやったし。なんや知らんけど、ほっとかれへんかったし。
 自分があたりまえだと思ってきたものを、凛はなにひとつ持っていなかったから。
 多津の私室の前まで来て、凛はぴたりと足を止めた。
「片付けがあるんじゃないの」
 振り向きもせずに、言う。将太はこぶしを握りしめ、
「そんなん、どうでもええ。おれはおまえの方が心配や」
 せや。客間の片付けなんか、それこそあとでもできる。けど、おまえは……。
 わずかに、凛の体が震えたように見えた。表情は窺えなかったが。
「……将太」
 囁くような声。
「なんや」
 こぶしを握ったまま、訊く。
「ここにいて」
「へ?」
「おばあさまに話があるんだ。だから……」
 凛は肩越しにこちらを見た。
「それが終わるまで、ここにいて」
「凛……」
「頼むね」
 唇に微笑を浮かべて、凛はそう言った。
 おばあさまに話がある。
 それはきっと、自分の母親のこと。いままで触れずにいた核の部分に、足を踏み入れようとしているのだ。
「ほな……待っとるから」
「うん」
 凛はきっちりと廊下に座した。少し離れた場所に、将太も腰を下ろす。
「おばあさま、よろしいですか」
 襖に向かって、声をかける。
 中から「お入り」という返答が聞こえたのは、それからたっぷり三十秒後のことだった。