注意一秒、恋一生! by 近衛 遼




ACT23
 法事客の何人かは、本庄家に泊まることになっていたらしい。将太は忠義とともに客間に蒲団を敷いた。
「さーてと。これでおしまいやな」
「んー。これからまた地道走って帰らなあかんかと思うとイヤんなるけど、ま、姫さんの役にたててよかったわ」
 忠義が肩をとんとんと叩きつつ、言った。
「これで点数稼げたかなー」
「なんやねん、点数って」
 将太はちらりと忠義を見遣った。
「なにって、そら、ご隠居サンの心証がようなったら、そのうち姫さんをウチのバンドに貸してくれるかもしれんやろが」
「おまえ、そんな魂胆で……。あかんあかん。あのばーちゃんがそんなこと許すかいな」
 このご時世に、携帯電話を持つことさえ認めていないような人物である。バンド活動など、論外だろう。
「手強い相手やいうのはわかってるけどなー。ま、長期戦やな」
 どうやら、あきらめる気はないらしい。
 たしかに学祭のときの凛の舞台姿はきれいだった。なんでも、あのあと問い合わせが殺到したそうで、忠義としては凛を正式に「くれなゐ太夫」に参加させようと考えているようだった。
「まあまあ、ご苦労さんどしたなあ」
 台所の床を拭いていたふみが、二人の姿を認めて言った。
「ほんまに、お二人のおかげで助かりましたわ。黄金丸さん、これ、大奥さまから」
 ふみは懐紙に包んだものを差し出した。
「へっ……なんですのん」
 忠義はまじまじとそれを見た。
「なにって、お手当どす」
「俺に?」
「へえ」
「こいつのぶんは」
 将太を目で差して、問う。
「さあ……。将太はんにはなんにも預かってまへんけど」
 さもありなん。いかにも多津らしい。
「ふーん。それやったら、俺もいらんわ」
 ひらひらと手を振って、忠義は言った。
「なにもカネもらおう思うてやったわけちゃうし。ご隠居サンに、気持ちだけ貰うとくって言うといて」
 割烹着を丁寧にたたんで、ふみに返す。
「ほな、そろそろ帰るわ。将太、一緒に乗ってくか?」
 忠義はちらりとこちらを見た。
「玄関に横付け、っちゅうわけにはいかんけど、近くまで送ったるで」
 実際、その申し出はありがたかった。いまから乗り継ぎの悪い電車で帰るより、少々荒っぽいとはいえ、忠義の運転する車の方がラクだ。が、しかし。
「いや、おれ、今日はここに泊めてもらうわ」
「へ? 泊まるて、おまえ……」
 忠義は目を丸くした。ふみも、ぽかんと口を開けている。
「あ、その、つまり、お客さんもまだ何人か残ってはるし、榎木のおばちゃんだけやったら朝ごはんの支度とか大変かなー、と……。あかんかな」
 なにしろ、たったいま思いついたばかりだ。多津に断わりもなくこんなことを言ってしまって、まずかったかもしれない。
「ふーん。なるほどね〜」
 ややあって、忠義が訳知り顔でにんまりと笑った。
「姫さんが心配なんか」
「えっ……べつに、おれは……」
「隠さんでもええがな。さっき、俺もおかしいなーって思うとったんや。お客さんを送っていくとき、姫さん、いまにも倒れそうな顔しとったし」
 たしかに、あのときの凛の顔には、いつにもまして表情がなかった。ただでさえ白い頬は、まるで石像のようで。
「あれはただごとやなかったで。広間で、なんかあったんか」
 忠義はほとんど台所にいたので、座敷でのやりとりを知らない。
「おばーちゃんの弟とかいう人がえらい酔っ払うて、うだうだ言うとったんやけど」
「うだうだって、どんなことを」
「ええと、たしか……」
 将太はできるだけ忠実に、そのときの様子を話した。
 「宗子」。その名が出たとたんに、凛も多津も顔色を変えたのだ。
「ふーん。ここん家も、いろいろとワケありなんやな」
 将太の話を聞いた忠義は、うしろで束ねていた髪をほどいた。
「まあ、余所モンの俺がどうこう言うこっちゃないし、先に帰るわ」
「余所もんってなあ……」
 おまえまで、そーゆーこと言うか。
 将太は小さくため息をついた。おれかて、余所もんやねんけどな。
「なんや。おまえ、自覚なかったんか」
「自覚て、なんのこっちゃ」
「朝っぱらから法事の手伝いさせといて心付けもないっちゅうんは、ご隠居さんがおまえのことを身内やと思うとる証拠やろ。それに、おまえと姫さんは夏休みのあいだ、ひとつ屋根の下で暮らしとったわけやし」
「ひ……ひとつ屋根の下って、おまえなあ……」
 誤解を招くような言い方はやめてほしい。
「あんな状態の姫さんを、ほっといて帰られへんのもようわかるわ」
 うんうんと大きく頷き、
「ま、しーっかり、なぐさめなあかんで〜」
 言うなり、忠義は足を廊下へと向けた。
 なぐさめるて言うてもなあ……。じつは、そこまで深く考えていなかった。ただなんとなく、凛をひとりにしておいてはいけない気がして。
 おばーちゃんになんて言われるかな。あかんて言われたら、しゃあないけど、でも……。
 将太は多津の許可を取るべく、座敷に向かった。


 結局。
 翌日の朝食や後片づけを手伝うという名目で、将太はその日、本庄家に泊まることになった。以前と同じく凛の続き部屋の一室を使うように言われ、将太はふみに出してもらった浴衣を持って階段を上った。
 凛には、まだなにも言っていない。急に自分が泊まることになって、怒っているのではないだろうか。そんな心配を胸に、将太はおそるおそる襖を開けた。
「凛……」
 中は暗かった。いや、障子から薄い月明りは差し込んでいるのだが、いまだ闇に慣れぬ将太の目には、真っ暗に見えた。
 もう寝たんかな。音をたてぬように、そっと中に入る。夏休みに寝泊まりしていた六畳間は、凛が勉強部屋に使っている八畳間のとなりだった。
「おばあさまに、言われたの」
 六畳間の襖に手をかけたところで、凛の声がした。はっきりとした口調。どうやら起きていたらしい。
「なんや。起きとったんかいな。……おばーちゃんが、なんやて?」
「ぼくを見張ってろって」
「はあ?」
 話が見えない。いつものことだが、凛の話は唐突だ。起承転結の「結」しかない。もっともそれは多津も同じで、たいていの場合、こちらが「起承転」を想像しなければいけなかった。そういう作業にもさすがに慣れたが、今回はどうもうまくいかない。
「見張るって、おれがか?」
「ほかにだれがいるの」
「おらんけど……なんでおれがおまえを見張らなあかんねん」
「ぼくが……おかしな真似をしないように」
 ますますわからない。凛は今日も、本庄家の総領として立派にふるまっていた。家でも、寺でも。それなのに、なぜこんなことを言うのだろう。
「黄金丸さんと一緒に帰ればよかったんだ」
「え……」
「無理して残らなくても」
「あのなあ、おまえ、勝手に話を進めんなや」
 将太は八畳間の電気を点けた。凛は蒲団をかぶったまま、背を向けていた。こちらを向く気配はない。
「だれも無理なんかしてへんで。おれの方からおばーちゃんに、今晩泊めてくれって頼んだんや」
 ぴくりと蒲団が揺れた。栗色の髪がわずかに見えている。
「あしたは授業は休講やし、バイトも入ってへんし、朝ごはんの用意とか後片づけとか手伝えると思うてなー」
「……うそだ」
 くぐもった声。
「うそなんか、ついてへん。顔見たらわかるやろが」
 言いながら、枕元をのぞき込む。
「へっ……?」
 蒲団の中から将太を見上げたその目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
「どっ……どないしたんや。具合、悪いんか? おばーちゃんに言うて、薬でも……」
 立ち上がろうとした将太の手を、凛が掴んだ。
「いやだ」
 潤んだ瞳で見つめられる。握る手に力が入った。
「うそじゃないなら、ここにいて」
 ……なんか、こーゆー展開、「参考書」に載ってたよなあ。一瞬、妄想がふくらむ。
 あかんあかん。いまそんなことを考えてる場合か。
 将太は必死に理性をかきあつめ、件の「参考書」のことを頭から追い出した。
 なにがなにやら、よくわからない。が、凛がひどく不安定な状態であることだけはたしかだ。多津との会話の中で、凛は「宗子」という名に過敏に反応していた。
 だれのことやろ。たぶん、女の人やろけど。
『宗子が出ていって、だいぶ心配しとったけど』
 先刻のやりとりを思い出す。
 あのときの凛の動揺。切り捨てるような多津の態度。ふいに、将太は気づいた。「出ていって」って、まさか……。
「凛。あの……こんなこと訊いてええんかどうか、わからんけど、もしかして『宗子』って……」
「そうだよ」
 凛の上体が、将太に腕にもたれた。
「ぼくの、かあさんだ」
 まるで機械のように、凛はそう言った。