注意一秒、恋一生! by 近衛 遼




ACT21
「いやあ、ほんま、姫さんがいてくれて助かったで」
 打ち上げの会場となった居酒屋で、忠義が何度目になるかわからないその台詞を言った。
「小杉のやつがぶっ倒れたときは、どないしようかて思たけど」
 小杉というのは「くれなゐ太夫」のピアノやシンセサイザーを担当している男で、リハーサルの最中に倒れて病院に運ばれた。付き添っていったスタッフの話だと、急性虫垂炎だったらしい。
 仕方なく、開演時間を遅らせてプログラムを変更しようと話し合っていたところ、譜面を見ていた凛が「これなら弾ける」と呟いた。最初は半信半疑だった忠義も、凛が初見の曲をほぼ完璧に弾けたと見るや、大急ぎでリハーサルを再開した。
 「学校に知られたら面倒だから」と言う凛に、忠義は女ものの着物を着せて化粧をして、さらにはかつらまで用意した。そして、あのライブとなったのだ。
「ピアノの腕はもちろんやけど、ルックスもイケてたなあ。これからもときどき、出てくれへんかな」
 ビール片手に、忠義。将太はするめの天ぷらをつまみつつ、
「アホ。今回は特別や。だいたい、凛はまだ高校生やねんで。酒の出る店とか深夜のライブには連れていかれへんやろが」
 学校にバレたら停学か、悪くしたら退学処分だ。それに、あの多津がそんなことを許すはずがない。
「そら、そうやけど……。うーん、あと二年、待つしかないか」
 忠義はまだ未練があるようだ。
 それにしても、意外だった。凛が公の場で演奏するとは。
 ピアノが好きだということは知っていた。音大に進めるぐらいの実力があるということも。だが、いままで凛がそれを口にしたことはなかったし、ましてや自分から忠義たちと同じ舞台に立つなんて思ってもみなかった。
 ライブのあと、凛は早々に化粧を落とし、私服に着替えて帰っていった。なぜか見計らったかのように、楽屋口に弥勒院が現れたのには驚いたが。
「今日はじつに有意義な一日でしたよ。さ、帰りましょうか」
 有意義って、なんやねん。有意義って。
 問い質したいのはやまやまだったが、後片づけも残っていたし、打ち上げの予定も入っていたので、凛を駅まで送ることもできなかった。
 これって、もしかしたら「嫉妬」なんかな。
 ぼんやりと将太は思った。いままで、ダチのひとりもおらんのはモンダイや、なんて思うとったけど、実際に凛のそばに家族以外のだれかがいるのは、どうも素直に喜べない。
 いややな。こんな自分。ため息がますます深くなる。
「姫さんには、なんかお礼したかってんけどなー。まあ、また次に会うたときでええか」
 横では、忠義が上機嫌でビールを空けている。
 次、かあ。……次、いつ会えるんやろ。
 会いたいけど、会うたらまたヘンに意識してしまうかもしれん。どないしたらええんや。ほんまに。
 あいかわらずの情けない気持ちで、将太はちびちびとウーロン茶を飲んだ。


 そんな将太を、神様が哀れに思ってくれたのかどうかは定かではないが、学園祭から四日たったある日の夜、逢坂家に一本の電話がかかってきた。
「あら、まあ、本庄くん。元気?」
 電話を受けた皐月の声が、一オクターブ跳ね上がった。
「ずいぶんごぶさたやねえ。将太なんかおらんでも、遊びにきてくれたらええのに」
 そういう自分も、保険の外交の仕事でほとんど家にいないくせに。
「おかあちゃん、余計なこと言わんでええから、早う受話器貸してえな」
「やかましいっ。ちょっと待ち」
 小声でぴしゃりと言われた。あかん。まあ、凛はうちの女どものアイドルやからなあ。忠義はおもちゃやし。おれは……やめとこ。まじめに考えたらドツボや。
「へえ、そら、たいへんやねえ。ええよええよ。あんなんで役に立つんやったら、いくらでも使うたって」
 なんだか、妙な方向に話が進んでいるような。「あんなん」って、もしかせんでも、おれのことか?
「ほな、電話、替わるさかい。ほんまに、また遊びに来てな。なんやったら、金曜日の晩から泊まりにきてもろても……」
 替わるんとちゃうんかいな。将太は皐月から受話器をもぎとった。
「なにすんねん、将太!」
 皐月がにらむ。将太も負けじとにらみ返した。ここで引いたらあかん。あとで洗濯物たたみとアイロンかけを強制されようとも、だ。
 せっかく凛が電話をかけてきてくれたのに、いつまでも皐月の世間話に付き合わせているわけにもいかない。
「おれにかかってきてんから、おかあちゃんはあっち行っといて」
 一年に一度、あるかないかの強気の態度で言った。皐月は目を丸くしている。
 まずかったかな。でも、相手は凛やし……。
「へーえ」
 めずらしいものを見たかのように、皐月は笑った。
「なっ……なんやねん」
「べつにー。なんもないで。まあ、電話代はあっち持ちやし、ゆっくり話し」
「おかあちゃん! そんなコロツなこと……」
 保留ボタンを押していなかったので、いまの会話は凛に丸聞こえのはずだ。さっさと奥に入っていってしまった皐月に頭の中で悪態をつきつつ、将太は耳に受話器を宛てた。
「あの……凛?」
 おそるおそる、話しかける。沈黙。
 怒ったんかな、やっぱり。そら、気ぃ悪いよな。
「すまん。凛。おかあちゃんも悪気はないんやけど……」
 なんで、おれがおかあちゃんの代わりに謝らなあかんねん。理不尽なものを感じつつも、とりあえずは低姿勢に出る。しばらくして、ため息のようなものが聞こえた。
「いいよ、べつに」
 凛の声だった。するりと耳に入り込む。
「それで、来週の週末なんだけど」
「うんうん。なんか、用事か?」
「おばあさまが、将太に手伝ってほしいことがあるって」
「おばーちゃんが?」
 いやな予感。多津が将太を呼ぶときは、たいてい家の雑用が絡んでいるのだ。天然の鮎が食べられるとかいう見返りはあるにしても。
「日曜日に、おじいさまの三十三回忌の法事があるんだよ。ふみさんだけじゃ、みんなの接待はできないし、かといって余所の人を頼むわけにもいかないから」
 「余所の人」てなあ……。おれかて、余所もんやねんけど。
 どうやら、多津に続いて、凛の頭の中でも将太は「うちのもん」になっているらしい。
 これって、喜んでええんかな。おれは、凛にとって「余所もん」やなくなってるんやろか。
「将太?」
 電話の向こうから、声。あかん。ぼんやりしとった。
「あ、悪い。来週の日曜日やな」
「うん。お寺に行くのが十一時だから、それまでに来て」
 こちらが断るとは、露ほども考えていないらしい。もちろん将太も、親の葬式と重ならないかぎり、断るつもりはなかったが。
「わかった。十一時やな」
 そうは言っても、多津のことだ。少なくとも一時間は早めに行かなければ。
「じゃ、よろしく」
 かちり。一方的に、電話は切れた。
 なんともぶっきらぼうな切り方だ。が、話を繋ぐことが苦手な凛にとっては、めずらしいことではない。皐月と世間話ができるようになっただけでも、たいした進歩だと思う。
 来週か。
 また、ばーちゃんに扱き使われるやろけど。法事いうたら、いろいろたいへんやろけど。でも。
 将太は、自室の壁にかかっているカレンダーに、大きく丸をつけた。


 受話器を置いたあと。
 凛はゆっくりと階段を上がって、自室に入った。
 そっと机の引き出しを開ける。
 なんの変哲もない白い封筒。宛名は「本庄多津様」。差出人は……。
 名字は違うが、間違いない。「宗子」。それは、母の名前だった。自分を産んで、すぐに亡くなったはずなのに。
 消印は、にじんでよくわからない。リターンアドレスもない。中に入っていたはずの書簡すらなかった。まったく、なんの手掛かりもない古い封筒。
 それでも。
 これを見つけられたのは、ただの偶然ではないような気がする。
 祖父の法事を前に、祖父が残した古い書物や写真を眺めていたときに、これに巡り逢ったのだから。
 以前の自分なら、そんなことはしなかった。祖父の思い出を辿ろうなどとは。
 将太。
 きみと会ったから。
 人との繋がりをこのうえないものとしている、きみに。
 凛はふたたび、その封筒を引き出しの奥に仕舞った。