注意一秒、恋一生! by 近衛 遼




ACT18
 太陽が黄色い。耳の奥でセミが鳴いとる。もうすぐ秋の彼岸やっちゅうのに、なんでこんなに暑いんや。
 逢坂将太は、建築現場の更衣室で警備員の制服に着替えつつ、頭を振った。
「なんや、その顔は」
 遅れて更衣室に入ってきた忠義が、オレンジ色のサングラスの中の目を丸くした。
「……言わんといてえな」
 声もこころなしか、かすれている。
「きのう、寝てへんねんから」
 あのあと、帰宅したのが午後八時。夕飯もそこそこに、将太は自分の部屋に籠もって忠義からもらった雑誌を開いてみた。そこには……。
 あかん。いま思い出したら、とんでもないことになってしまう。
 将太はふたたび、プルプルと頭を振った。
「アホか、おまえ」
 心底がっくりした様子で、忠義。
「アレ、ひと晩で全部読んだんかいな」
 読んだ。読んでしもた。やめよう思うても、やめられへんかった。
 あんなん、中坊んときにはじめてエロ本見て以来や。視界の端々に、あれやこれやが浮かんでは消える。
「将太……」
「へ?」
「悪いことは言わん」
「はあ……」
「ほかのやつらが来る前に、便所行ってこいや」
 頭の中で、KOのゴングが響いた。


 その日は散々だった。トラックの誘導をしている最中に砂利に足をとられて轢かれそうになったり、スジもんのおっさんに絡まれたり、ちょっと注意しただけの幼稚園児に派手に泣かれたり。忠義がフォローしてくれなかったら、いまごろフクロにされているか、バイトをクビになっていたことだろう。
「すまんなあ、忠義」
 帰り道、将太は肩を落として言った。
「バイト代出たら、なんかおごるさかい」
「あったりまえや。今度は牛丼の一杯や二杯ではあかんでー」
「え、ほんなら、なにおごったらええねん」
 びくびくしながら、訊く。
「但馬牛のしゃぶしゃぶ……とか言うても、ムリやろ」
 ぶんぶんと頷く。忠義はにんまりと笑った。
「『花扇』の宴会コースでガマンしといたるわ」
 花扇というのは、将太がバイトをしている居酒屋だ。忠義もときおり、厨房に入っている。この店は串は一本から、刺身は三切れからというのが売りで、宴会コースでも予算内で客が内容を決められるというので、サラリーマンやOLのみならず、家族連れにも人気があった。
「三千円コースに飲み放題コース追加で、どうや」
「……って、おまえ、飲み放題って千五百円やで」
「合わせて四千五百円。消費税込みでも五千円でお釣りが来るやろ。安いもんやないか」
「そら、和牛のしゃぶしゃぶよりは安いかもしれんけど……」
 コンビニの弁当を、一週間おごると言った方がよかったかも。将太の頭の中で、哀しいほど小市民な思考が巡る。
「参考書も寄付したってんから、それぐらいええやろ」
「参考書って……」
 しまった、と思ったときには遅かった。いきなり顔が熱くなってきた。鼻の奥がつんとする。
「あ……」
 あわてて、首に巻いていた手拭いで鼻を押さえた。
「……おまえなあ」
 忠義が、情けなさそうにため息をつく。
「そんなんでは、姫さんに嫌われるで」
「きっ……嫌われるもなにも……」
 上を向いて、首のうしろをトントンと叩く。
「どうしたの」
「うわあっ!」
 いきなり声をかけられて、将太は真横に飛び退いた。
「きっ、きっ……凛……」
「なんだよ。人を化けものみたいに」
 グリーン系のチェックのシャツを着た凛が、黒目がちの瞳で将太をにらんでいた。
 可愛いよなあ。あらためて、思う。怒ったような顔をしていても、やはり可愛い。
 そう思うと、さらに顔がほてってきた。手拭いが赤く染まる。
「……具合、悪いの」
 心配そうな表情で覗き込んできた。
 あかん。それ以上、近づかんといてくれ。
 よろめくようにして、うしろに下がる。それを忠義が支えて、
「すまんなあ、姫さん。こいつ、今日、トラックに轢かれかけてん」
「え……」
「あ、心配せんでも、ギリギリセーフやったから。まあ、夏の疲れが出たんやろ」
「夏の、疲れ」
 ぼそりと、凛は言った。
「そうだよね。休み、なかったから」
「へっ、いや、そういうわけとちゃうけど……」
 お盆の前後のことを言っているらしい。将太はあわてて、否定した。
「じゃ、お大事に」
 凛が横をすりぬけていく。
「凛!」
 思わず、腕を掴んだ。
「なに?」
「あの、その……夏休みのこっちゃけど……」
「悪かったね。おばあさまに付き合わせてしまって」
「ちゃうて。あれはこっちが勝手に転がりこんだようなもんやねんから。そら、おばーちゃんには、いろいろ用事言いつけられたけど、ええ勉強になったし、楽しかったんやから」
 一気にそこまで言った。凛は、ぽかんとしている。
「せやから、べつに、疲れてへんから……」
「おい」
 横から、忠義が声をかけた。
「ムキになるなや。鼻血、止まれへんやろが」
「やかましいわ。だいたい、おまえがあんなもん……」
「ストーップ!」
 忠義が、目配せした。せや。目の前に凛がおるんやった。
「……いや、その、つまり……」
「やっぱり、早く帰った方がいいんじゃないの」
 訝しげな顔。将太は観念した。
「ん。まあ……そうしよかな」
「じゃあ、ぼくはこれで」
「ああ、またな」
 鼻を押さえたままで、言う。なんともかっこわるいが、仕方がない。商店街の角を曲がっていく凛の背を見送って、将太は大きくため息をついた。


 いろいろ考えた挙げ句。
 将太は忠義にもらった「参考書」を、全部返品した。
「なんや。もうええのんか」
 忠義はにんまりと笑った。
「ま、隅から隅まで読破したっちゅうこっちゃな」
「うるさいわ」
 憮然として、将太は横を向いた。
「そんなもん家に置いといて、めぐみにでも見つかったら大変やからな」
 口止め料を取られるのは、もうご免だ。
「なるほどなー。そーゆーこともあるわな」
 納得顔で、風呂敷包みを受け取る。
「で、姫さんと進展はあったんかいな」
「進展て……」
 あるわけがない。このごろは、道で立ち話をするのがせいぜいなのだから。
 たまに、大津への電車の乗り継ぎの関係で時間があるときなどは、ファストフード店やゲームセンターに行くことはあったが。
 湖畔での一件から、すでにひと月。凛は、そのことについてなにも言及しない。まるで、なにもなかったかのように。
 忘れてしもたんかな。ふと、そんな考えがよぎる。
「アホか、おまえ」
 それを言うと、忠義に一喝された。
「酔うた勢いとか、罰ゲームでチューしたんとちゃうんやろ。そんなもん、だれが忘れるかいな」
 あきれたような顔をして、カチューシャを直す。少し涼しくなったので、このごろは髪を下ろしているのだ。月に二度は美容院で手入れしているらしい。あいかわらず、マメなやつだ。
「一応、言うとくけどな」
 ずい、と、忠義が迫ってきた。ライブハウスで騒がれているだけのことはある見映えのする顔が、眼前十五センチで止まった。
「なっ……なんやねん」
「ゴーカンはあかんで」
「ごっ……ゴーカンって、おまえ……」
 あまりのことに、漢字変換ができない。
「あ、ちゃうわ。相手が男やったら、強制ワイセツや。ま、どっちにしても、立派な犯罪やなあ」
「おまえなあ、冗談でもそーゆーこと……」
「冗談ちゃうでー。ダチをブタ箱に送るのは忍びんからな。せいぜい気ぃつけや」
 冗談にしても、本気にしても恐ろしい。
 両肩にずっしりと重石を乗せられたように、将太はよろよろと古ぼけたアパートを後にした。