注意一秒、恋一生! by 近衛 遼




ACT17
 なんで、あんなことしてしもたんや。
 逢坂将太は混乱していた。
 あかん。寝られへん。この襖の向こうにあいつがおるかと思うと……。
 やわらかな唇だった。感触がいまでも残っている。
 どうすんねん。これ。
 明らかな体の変化をもてあまし、将太は悶々として夜の過ぎるのを待った。


 翌朝。
 朝食を済ますと、将太はおもむろに多津に向かって頭を下げた。
「いろいろ、お世話になりました」
 いきなりのことに、榎木ふみは目を丸くしている。凛は飲みかけの湯飲みを膳に戻した。
「帰りはるんえ?」
 多津はちらりと将太を一瞥して、言った。
「はい。大学のレポートも残ってるし、バイトもそう長いこと休まれへんから……」
「そうどすか。まあ、また遊びに来やはったらよろし」
「おおきに。おばーちゃん」
 将太は、ふたたび頭を下げた。
「ごちそうさま」
 ぼそりとそう言って、凛は立ち上がった。
「あの、凛……」
 話しかけようとした将太の目の前を、凛は通り過ぎていった。まるでそこに、だれもいないかのように。
 将太は首をかしげた。やっぱり、怒っとるんかな。きのうは平気な顔しとったけど。
 そら、そうか。男にキスされたんやもんな。気持ち悪いて思うのはあたりまえや。そのうえ、おれは……。
 昨夜のことを思い出し、将太は頭を振った。まじで、まずい。こんなん、おれ、ヘンタイやんか。
 朝食の後片づけを早々に終わらせて、将太が本庄家を出たのは、午前十時のことだった。


 およそ半月ぶりの我が家だ。
 土産を買って帰ったせいか、急に家を明けたことに関しては、あれこれ詮索されなかった。行き先が凛の家だったことも、その要因のひとつだろう。
 もっとも長姉のみゆきには、「いい弟を持って、本当にしあわせだわ」と、にこやかに嫌味を言われたが。
 件の米搗きバッタとは、結局は別れたらしい。とはいえ、すでに来月半ばには次の見合いをするというのだから、たくましいかぎりである。
 好奇心のカタマリのようなめぐみも、今回の一件がみゆきがらみだと知って、さわらぬ神に祟りなしとばかりにおとなしくしている。逢坂家の勢力分布は、いまも昔も変わらないようだった。


 月が変わって、九月。
 レポートもなんとか仕上がり、将太は従前通りのバイトを再開した。夜間工事と居酒屋と、建築現場の誘導の仕事である。
 となると当然、以前と同じように、通学途中の凛と顔を合わす機会も増えた。
「おはよう」
 そっけなく言って、通り過ぎていく。帰りも似たようなものだ。ただそれだけのことなのに、その時間帯が近づくと、妙に落ち着かない。凛の姿を見かけるたびに、不自然なぐらい大声を出したり、逆にまともにあいさつを返せなかったりした。
「どないしたん」
 ある日、バイトの帰り道で忠義が言った。
「なんか、ヘンやで」
「へっ……へんって、なにがや」
「どもるなや。わかりやすいやっちゃなあ」
 肩をすくめて、続ける。
「姫さんと、なんかあったん?」
 いきなり直球。しかもデッドボール。将太はため息をついた。
「もう、おれ、どうしたらええか、わからんようになってしもて……」
「せやから、どないしたんやって訊いとるやろが」
「やってもた」
「はあ?」
「きれいやなーって思て見とるうちに、つい……」
「やってしもたんか!?」
 忠義が、ずいっと目の前に迫ってきた。
「チューしてしもてん。どないしよー」
「……なんや、チューかいな」
 気が抜けたような調子で、忠義。
「やったって言うたから、てっきり……。まあ、ええわ」
 ぼそぼそと呟いて、金茶色の髪をかきあげる。
「で、そんとき、姫さんは?」
「べつに、なんにも……けど、なんとなく気まずい雰囲気でなあ」
「そら、そうやろ。ヤローに唇、奪われてんから」
「やっぱり、嫌われたんかな」
 情けなさがアップする。忠義はそんな将太をながめつつ、
「ま、チューして蹴り入れられへんかったんやから、まったくミャクなし、っちゅうことはないと思うけど」
「脈って、おまえ……男やで、あいつは」
「チューしといて、そーゆーこと言うか?」
 くすくすと笑って、忠義は将太をひじでつついた。
「せや。おまえ、今日、ちょっと時間あるか?」
 唐突に訊かれる。
「え、べつに、用事ないけど……」
「ほな、ちょっと、うちに寄れや」
「へ、なんで」
「まあ、ええがな。ビールぐらい出すで」
「……おれ、未成年やけど」
 実はビールもチューハイも飲んだことはあったが、一応、そう言っておく。
「お固いねんなー。ま、ええけど」
 ぶらぶら歩いているうちに、忠義が借りているアパートの前まで来た。
「ちょっと待っとってなー」
 いまにも壊れそうな階段を駆け上がる。
 そして、三分ばかりのち。忠義は風呂敷包みを抱えて下りてきた。
「ほれ」
「……なんや、これ」
 ずっしりと、重い。どうやら、雑誌の束らしい。
「こないだの古紙回収の日に出とったんや。この類の本は、古本屋に持っていったら結構な値で売れると思うて取っといたんやけど……」
「この類って……」
 ちらりと中をのぞく。
「うわあっ……」
 おっ……男と男が絡んどるっっ!!
「え………あ……の……」
 おそるおそる、忠義を見遣る。
「ボーイズラブっちゅうんかな。最近はこーゆー漫画や小説も流行っとるみたいでなー」
「はっ……流行っとる?」
 声がうわずる。めぐみ……もしかして、こんなもん見とるんか?
「ま、そのうち必要になるかもしれんし。しっかり勉強しときや」
 にんまりと、茶髪の友人は笑った。
 こんなもんタイムリーに見せられて、どないせえっちゅうんじゃ……。
 がっくりと肩を落としながらも、しっかりと風呂敷包みを抱える。
「『いざ』っちゅうときに恥かかんようにしいや」
 いざ、っちゅうときって、なんやねん。いざ、って……。
 凛の唇を思い出す。途端に鼓動が跳ね上がる。
 ……マジかいな。
 こんなところで、こんな状態になってしもた。最悪や。
 汗が吹き出る。手が震える。
「アホか、おまえ」
 忠義がため息をついた。
「ほれ」
 目の前に、鍵が差し出された。
「え……」
「おれはあっちの角のゲーセンにおるからな。始末つけたら、鍵返しに来いよ」
 要するに、しばらくのあいだ部屋を貸してくれるというのだ。
「忠義……」
「早よ行け。せやけど、部屋汚すなや。ボロやけど、敷金払っとるんやさかい」
 鍵を押しつけるようにして、忠義は踵を返した。なにやらぶつぶつと文句を言いながら。
 思いっきり情けない。けど、そんなこと言ってられへん。
 将太は友人の温情に甘えることにして、古びた階段を上っていった。