注意一秒、恋一生! by 近衛 遼




ACT15
 この夏のことを、きっとおれは忘れない。

 なーんて。映画のコピーやったら、かっこええんやけど。
 将太は車を洗いながら、心の中で呟いた。
 それにしても、やたらめったら扱き使われた二週間やったな。
 なにしろ多津は、人材派遣会社との契約をキャンセルし、ハイヤーの予約も取り消し、料亭からの仕出しも断ってしまったのだから。
 将太が本庄家に来て三日後、ふみが盆休みを取って若狭へ墓参りに出かけた。結果、三度の食事の用意から掃除、洗濯、庭木の手入れ、買い出しや多津の外出の付き添いまで、全部将太がしなくてはいけなくなった。
「いま帰ってきたとこやねんから、ちょっと待ってえなっ」
 台所で将太が鍋を片手に叫ぶ。
「昼間のうちに、下ごしらえしといたらよろしおしたんや」
 上がり口で多津がさらりと小言を言い、凛は焼き台の横で「焦げてるよ」とチェックを入れる。食事のたびにこんな情景が繰り返されて、さすがの将太もげんなりすることが多かった。
 それでも仕事を投げ出さなかったのは、家に帰りづらかったこともあるが、努力すればするだけ、なにかしらの達成感があったからだ。
「ええ照りどすなあ」
 さわらの照り焼きを見たときの、多津の顔。
「ごちそうさまでした」
 冬瓜のあんかけを、そぼろの一粒まで残さず食べてくれた凛。
 ひとつひとつが心に残る。もちろん料理だけでなく、ほかの仕事でもそれは同じだった。
 たしかに多津は厳しい。気を抜いていたら、途端に叱責される。それはもちろん恐いのだが、どんな細かいことでもきっちり見ていてくれるというのは、なんとも言えない感慨があった。
 懐が、深いのだと思う。決して広くはないのだが。
「将太」
 凛が、母屋の玄関から出てきた。
「おばあさまが、少し早めに出かけたいって」
「えーっ、十一時って言うてたやんか。まだ、ワックスかけてへんで」
「とりあえず、埃が落ちていればいいんじゃないの」
「そらそうやけど……」
「じゃ、よろしく」
 そう言って、またすたすたと母屋に戻る。
「しゃあないなあ」
 将太はため息をついて、雑巾で車を拭き始めた。


 多津を商工会の会合が行なわれる料亭まで送って、とんぼ返りで本庄家に戻って凛とともに昼食を摂り、また料亭に多津を迎えに行く。
 この二週間、何度も似たようなことがあったためか、すっかり将太は「本庄の若い衆」として地元の人々に顔を覚えられてしまった。
「ああ、本庄さんとこのお人やねえ。ちいと待っといてな。いま大奥さまをお呼びしてくるさかい」
 仲居頭だという年配の女性にそう言われ、将太は下足箱の前で待った。しばらくして、多津が奥から出てきた。
「えろう遅おしたな」
「ごめん、おばーちゃん。今朝通った道が、舗装工事で通れんかってん」
「そうどしたか。ま、お上のやることはしょうもないことが多おすなあ」
 文句は言うが、とくに気分を害したふうでもない。おそらく、これが多津の会話の癖なのだろう。
「ときに、あんた、大学いうのは夏休みに勉強せんでもよろしおすのんか?」
 本庄家へ向かう車の中。扇子を揺らしながら、多津が口を開いた。
「そんなこと、あるかいな。大学は勉強するとこや。宿題のレポートもあるし、休み明けには前期試験もあるし……」
「たいへんどすなあ。ほな、そろそろ去になはるか」
「へっ?」
「あしたはもう地蔵盆や。ふみも夜には帰ってくるし」
 要するに、おれは用無しってことかいな。
 ハンドルを握る手に、わずかに力が入る。
 ほんの少し、心が痛んだ。そら、こっちの勝手で居候さしてもろたようなもんやけど……。
 しばらくの沈黙ののち、多津がぱたりと扇子を閉じた。
「ま、ようおしやしたしなぁ」
「え……」
「二、三日、ゆっくりしてお行き」
 ルームミラーの中で、多津が満足そうに微笑んでいる。
 めずらしいもん、見てしもた。
 将太は複雑な心境で、ふたたび視線を前に戻した。

 翌朝、土産を山ほど抱えたふみが本庄家にやってきた。すっかり日焼けして、もともと色黒だったのが前後もわからぬほどになっている。
「いやあ、もう、子供らのお守りしてたら、こんなんなってしもて。恥ずかしおすわ」
 亡くなったご主人の親戚とは、いまだに本当の兄弟や友人のように付き合っていると言っていたが、どうやらそれは本当だったらしい。
「将太はんもご苦労さんどしたなあ。今日からは、ちいと休んでおくれやす」
 十日あまりの盆休みで、すっかり心身ともにリフレッシュしたらしいふみは、さっそく昼食の買い出しに出かけた。
 なんや、急にヒマになってしもた。
 将太は所在なさげに、前栽の草をちまちまとむしっていた。
 なにしろ、はじめて本庄家の敷居をまたいだときから、「お客さん」だったことはほとんどない。いつも、なにかしら用事をしていて、ゆっくりお茶を飲んだこともなかったような気がする。
 このところ晴天続きだったので、地面が固い。夕方にでも水をまいてから草むしりをした方がいいな。
 法師蝉の声を聞きながら、そんなことを考える。
 もう地蔵盆か。夏も、終わりやな。
「なにやってるの」
 頭上から、声がした。縁のガラス戸に手をかけて、凛がこちらを見下ろしている。
「ああ、凛。……なにって、見たらわかるやろ。草、むしってるねん」
「おととい、やったばかりなのに?」
「いや、まあ、その……ちょっと気になったさかい」
「ふみさんも戻ってきたし、今日はなにもしなくていいんだよ」
 凛は沓脱ぎ石の上の下駄をはいて、前栽に下りてきた。
「いままで……たくさん働いたんだから」
 独り言のように、言う。将太はまじまじと、凛を見つめた。
「なに?」
 訝しげに、凛は眉をひそめた。
「なんや、おまえ、変わったなあ」
「変わった?」
「うん。可愛いなったで」
 将太は素直に、思ったままを口にした。凛は黒目がちの目を見開いた。
「ぼくは女の子じゃないよ」
「そんなん、わかってるがな。なんべんも一緒にプール行っとるし……」
「だったら、言葉遣いに気をつけて」
 ぷい、と横を向く。
 まずかったかな。将太はふたたび草をむしりながら、凛の様子を窺った。
 木漏れ日が、ちらちらと白い横顔に揺れている。よかった。それほど機嫌は悪くなさそうだ。
 まあ、ほんまに怒ったんやったら、さっさと家ん中に入っとるわな。
 いままでの経験からそう判断する。
 出会ってから三カ月あまりたつが、当初はわかりにくかった凛の感情の動きが、このごろはよく見えるようになってきた。ぽつりぽつりと紡がれることばの中に、垣間見える凛の心。ずっと大人たちのあいだで育ってきたためか、自分の気持ちをぶつける術を知らない凛。そんな彼が発することばは、自分がふだん口にしているものよりも、大切な気がした。
「いつ、帰るの」
 うっかりしていたら聞き逃すほどの声で、凛は言った。
「んー、せやなあ」
 将太はむしった草を一カ所に集めながら、語を繋いだ。
「せっかくやから、もう二日ばかり居さしてもらうわ。おばーちゃんも、ゆっくりしていけって言うてくれたし」
「そう」
 短いことば。唇が、ほんの少し笑みの形になる。
 やっぱ、可愛いなあ。
 あらためて、そう思う。男でも、可愛いもんは可愛い。まあ、本人がいやがってるんやから、これ以上は言わんけど。
「どっか、行きたいとこあるか?」
 ふと思いついて、訊いてみた。
「え?」
「おまえ、ここんとこ、どっこも出かけてへんやん。せっかくの休みやのに」
 将太がここに来てから、凛はまったくといっていいほど外出していない。図書館や本屋にも行かず、部屋でクラシックのCDを聴いたりピアノを弾いたりすることが多かった。
 この家に厄介になってからわかったことだが、凛はかなりピアノが巧い。なんでも去年までプロのピアニストに師事していたらしく、一時は芸大への進学も勧められたそうだ。
 もっとも、それは多津に反対されて、いまは趣味で弾いているだけらしいが。
「べつに、行きたいところはないよ」
 興味なさそうに、凛は言った。
「出かけても暑いだけだし、人混みは苦手だし」
「人のおれへんとこで、涼しいとこやったらええんか?」
「……まあ、そうだけど」
「それやったら、晩に花火でもしに行こか」
「花火?」
「せや。琵琶湖のほとりまで行って、大きな花火上げよ。あ、でも、打ち上げ花火はあかんかったかなあ。迷惑条令違反とかで捕まるのはいややし……」
 とりあえず、子供向けの花火なら大丈夫だろう。将太はそう結論づけて、立ち上がった。
「ほな、出かけよか」
「え?」
「花火、買いに行こうや。ホームセンター行ったら、安いし。あ、せや。ついでに、キャンプの真似事でもやろか」
「キャンプって、テントでも張るの」
「そこまでせんでも、簡易コンロでカレー作って、飯盒で飯……は無理やから、真空パックのん買うて、外で食べたらええやんか」
「でも、晩ご飯はおばあさまと……」
「たまには、ええやろ。いまから、おばーちゃんに言いに行こうや。なんやったら、おばーちゃんも一緒に花火しに行ってもええし」
「……行かないと思うけど」
「そら、そうか」
 片眉をあげた多津の顔が目に浮かぶ。
「ま、どっちでもええがな。おばーちゃん、いまどこにおるかなー」
 将太は沓脱ぎ石にサンダルを脱ぎ捨てて、縁に上がった。この時間なら、座敷で書の稽古でもしているかも。
 すっかり多津の日課を把握した将太は、ずんずんと奥へと入っていった。