注意一秒、恋一生! by 近衛 遼




ACT14
 本庄家に着いたのは、もうすっかり夜も更けたころだった。
 駅から電話をしておいたので、通用門は開いていた。庭の外灯も点いていたので、足元を気にすることなく玄関まで辿り着くことができた。
「夜分、おそれいります」
 いつもよりも固い声で、将太は奥に向かって声をかけた。しばらく待ったが、返事はない。
「すみません。こんばんはー。逢坂です」
 少し大きな声で、もう一度言ってみる。古い木の廊下に、声が吸い込まれていくようだ。
「あのー、ごめんくださーいっ」
「聞こえてるよ」
 横の狭い階段から、凛が降りてきた。青磁色の長袖のパジャマを着ている。
「あ、すまん。急に来て、悪かったなあ」
「そうだね」
 すぱっと言う。
「どうせなら、もう少し早く連絡してほしかったね」
「いや、その……ほんまに、急なことやったから……」
「ごはんは?」
「キオスクでパン買って食べた」
「大阪駅から電話してくれれば、まだふみさんもいたから、晩ごはんの用意もできたのに」
「へっ……」
 凛が、他人の食事の心配をしている。将太はまじまじと、凛を見た。
「上がれば」
 ぷいっと横を向いて、すたすたと奥へ入っていく。
「おばあさまが、きみに話があるって」
「せやろな。こんな時間に押しかけたんやし」
 叱られるのは覚悟している。でも、なんとかここに置いてもらえるように頼んでみよう。せめてお盆のあいだだけでも。
 奥の座敷に、浴衣姿の多津がすわっていた。
「お入りやす」
 ゆったりとした口調で、多津は言った。
 なんとなく、みゆきと同種の恐さを感じる。将太は座敷には入らず、廊下に正座して頭を下げた。
「夜分にお邪魔して、すみません」
「ほんまに、えらい遅い時間どすな。おうちでなんぞ、おましたんえ」
「ちょっと、トラブってしもて……あ、いや、その、いろいろ、家族と意見の行き違いがあって、頭、冷やそうと思て」
 あまりくわしいことは言いたくない。しかし、困ってるのだということは伝えなければ。
「おばあちゃんが、前に、お盆に来てもええて言うてはったん思い出して、それで……」
「それは凛の勉強を見てもらおうて思うたからどす。宿の代わりに使われては困りますわなあ」
「そんなこと、思うてへん!」
 将太は顔を上げた。
「おれ、勉強は自信ないけど、家の手伝いやったらできるし、車の免許も持っとるさかい、どっか行くときは送り迎えもできる。せやから、お願いします。しばらく、ここにいさせてください!」
 ふたたび、頭を下げる。
 凛は将太の横にいた。同じように、廊下に正座している。
 多津はしばらく無言だった。庭から虫の声が聞こえている。なんとも言えない、時間だった。
「ま、よろしおす」
 ため息まじりに、多津は言った。
「そのかわり、あんたのことは使用人として扱いますえ。そこのところ、ようわきまえとおくれやすな」
「ありがとう、おばあちゃん!」
 将太はぱっと顔を上げて、座敷の中にひざを進めた。
「なんでも言いつけてな。力仕事も得意やし。おれ、がんばるわ」
 まったく「使用人」らしからぬ物言いである。多津はそっとこめかみを押さえ、立ち上がった。
「もう休みます。凛」
「はい」
「おまえの部屋の控えの間を、貸しておやり」
「……はい」
 凛の横を通って、多津は自分の部屋に戻った。
「あー、よかった」
 将太は背伸びをして、ごろんと横になった。
「とりあえず、野宿せんで済んだわ」
「そんなこと、する気だったの」
 凛が訝しげな顔で訊いた。
「んー。まあ、ここがあかんかったら、とりあえず朝まで庭の隅か茶室の縁にでも寝て、あしたまた、どこか泊まるとこ探そうて思うとったんや」
「寝袋、持ってきたの」
「いや、そんなもん、持ってへんけど」
「それで、野宿?」
「真夏やから、大丈夫や。まあ、ここは大阪市内より気温が低いやろけどなあ」
「めちゃくちゃなこと、するんだね」
「背に腹は変えられんからな」
「たいへんだったんだ」
「まあなー。女は恐いわ」
「女?」
 じろりと、凛は将太を見下ろした。
「浮気でもしたの」
「はあ? なんのこっちゃ」
 将太はむっくりと起き上がった。
「だって、女は恐いって……」
「ああ、ちゃうちゃう。おれにカノジョなんかおるかいな。うちの女どものことや。めぐみはゴーイングマイウェイやし、さゆりねえちゃんは天然ボケでリズム狂うし、あゆ姉はなにかっちゅうとゲンコツやし、みゆき姉は悪魔の微笑みやし……もう、たまらんで」
「楽しそうだけどな」
 ぼそりと、凛が感想を漏らした。
「そうかー? まあ、端から見とったら、そうかもなあ」
 将太は大きく息をついた。
「安心したら、のど渇いたわ。麦茶、あるか?」
「ふみさんが作ってくれてると思うけど」
「ほな、台所行ってくるわ。おれ、おまえの部屋に泊まってええんやろ」
「控えの間だよ」
「三つとも、お前の部屋やん」
「そりゃそうだけど」
「細かいこと言わんでもええがな。おまえも麦茶、いるか?」
「え……うん」
「ほな、持っていったるわ。先、上がっといて」
 勝手知ったる他人の家、である。将太はすたすたと台所に向かった。凛はしばらくその背中を見送っていたが、やがて座敷の明かりを消して、階段を上っていった。


 翌朝、朝食の支度にやってきた榎木ふみは、将太が台所に立っているのを見て目を丸くした。
 それはそうだろう。昨夜までそんな話は聞いていなかったのだから。
「ちょっとワケありで、ゆうべ、急に来てん。びっくりさして、ごめんな」
「ほんまどすわ。将太はんも人が悪い。来るなら来るて、ひとこと言うてくれはったらよろしいのに」
「せやから、急なことやってんて。おれも、きのうの夕方まで、ここに世話になるて思うてなかったもん」
「はあ、そら、ほんまに急なことで」
 首をかしげながらも、ふみは将太とともに手際よく朝食の用意を整えた。
「ほんで、将太はん。いつまで、いはりますのん」
「さあなー。おばーちゃん次第やな」
「ああ、大奥さまどしたら、きっと夏中でもいてほしいて思うてはりますえ」
「へ? なんで」
「なんで、て……もうすぐお盆ですやん」
 それと自分と、どういう関係があるのだろう。
「お盆は、うちらもお暇をちょうだいしますんや。せやから毎年、大奥さまはこの時期になるとホテルにお泊まりになったり、ご旅行にお出かけになったりしはりますんやけど、今年は先代さんの三十三回忌で、いろいろとお寺の用事がおありで、出かけられんようになりましてなあ。それで、大奥さまの身の回りのお世話や家の用事をする人を頼みましたんやけど……」
 ふみは、そこでことばを切って、くすりと笑った。
「なにしろ、あのご気性でっしゃろ。なかなか大奥さまの気に入る人が見つからんで困ってましたんや。まあ、いざとなったら、適当なところで手を打つしかないのは大奥さまもご承知やと思いますけど、将太はんが来てくれはったら、余所のもんを家に入れんでも済みますしなあ。願ったり叶ったりやわ」
「余所のもんて……」
 それなら自分は、「余所の者」ではないのか?
 素朴な疑問が沸き起こる。それに気づいたのか、ふみが膳の用意をしつつ、話を続けた。
「ああ、すんまへんなあ。将太はんは余所のお人やけど、大奥さまのお気持ちの中では、もう『うちのもん』になってますんや」
 それが、よくわからない。自分は凛の友人に過ぎないのだが。いや、友人と言うには語弊があるかもしれない。自分は、なんとなく凛を放っておけないのだ。
「まあ、そのうち大奥さまからお話がおますやろ。あー、これでうちも安心して、亭主の墓参りに行けますわ」
 ふみはもう、将太が夏のあいだ、本庄家にいるものだと思っているらしい。
 なんとなくおかしな展開になってきたが、追い出されるよりはましだ。バイトの日程を調整すれば、今月いっぱいここにいても支障はない。
 とりあえず、朝食だ。
 将太は膳に一汁三菜を乗せて、多津と凛の待つ座敷に運んだ。