注意一秒、恋一生! by 近衛 遼




ACT11
 そろそろお昼の用意をしまひょか、と、ふみに言われて台所に入ると、そこにはやたらと活きのいい鮎がぱしゃぱしゃとはねていた。
「……もしかして、おれが焼くのん?」
 将太はおそるおそる、訊ねた。
「へえ。大奥さまは、逢坂はんにまかしたらええて言うてはりましたけど」
 ふみは塩焼き用の金串を洗いながら、言った。
「まかすて言われてもなあ……」
 将太は頭をかいた。
 魚河岸や居酒屋でもバイトをしているので、魚の扱いには慣れているつもりだが、さすがに活けの鮎を焼いたことはない。
「鮎の串打ちなんか、したことないで」
「夜店でやってはったんとちゃいますのん」
 たしかに、夏祭りの出店で鮎の塩焼きを売ったことはある。しかし、それは養殖ものの大きな鮎で、すでに氷で締められていた。
「天然鮎やしなあ。締めたらもったいないし……しゃあないなあ」
 将太は覚悟を決めて、生け簀に手を突っ込んだ。


 午後一時。
 ようやくすべての料理が出来上がった。
 鮎の背ごし、塩焼き、田楽。さらに鮎飯と、はもの吸い物。デザートはスイカの入った蜜豆である。
「さあさ、座敷に運びまひょ。大奥さまが首を長うしてお待ちやわ」
 ふみはお膳を持って、足早に廊下を進んだ。慣れない仕事にすっかり体力を消耗した将太は、タオルで額の汗をふきつつそれに続いた。
「えらい遅おましたなあ」
 本庄多津は、例によって床の間の横にきっちりと座していた。少し離れて、凛もいる。
「すんません。お待たせいたしまして」
 ふみは多津の前に膳を置いた。
「なんえ、これは」
 多津は眉をひそめた。
「ぼろぼろやおまへんか」
「ごめんなー、おばーちゃん」
 将太は、情けなさそうな声で言った。
「おれ、活けの鮎なんかさわるのはじめてでなあ。うまいこといかんかってん」
 とにかく元気のいい鮎だった。やっとのことでまな板の上に持っていっても、ぱたぱたと跳ねて台所の床に飛び出してしまい、あわてて拾い上げるということもあった。
 そんなこんなで、かなり傷がついてしまった鮎もあったが、それは田楽に回してなんとかごまかした。問題は、やはり串打ちだった。鮎も必死である。なかなかすんなりとはいかず、何度もやりなおす羽目になってしまった。
「それでこないに、穴だらけにしてしもうたんどすか」
「ほんま、すまんなあ。せっかく上等なもん買うてくれたのに、こんなことになってしもて」
「ちいとばかり失敗したいうて、何度も串を打ち直すことはおへんのえ。そのまま焼いてしもたらよろしおしたんや。次からは気ぃつけよし」
 次があるんかいな……。
 将太は期待と不安のないまぜになった気持ちで、座敷の隅にすわった。
「ほな、いただきまひょか」
 多津の声を合図に、一同は箸を取った。
 将太も今日ばかりはゆっくりと、ひとくちずつかみしめるように味わった。
 なにしろ、めったにお目にかかれない天然ものの鮎である。串打ちに悪戦苦闘したために多少見た目は悪いが、味は最高だ。川魚独特の香りと、たで酢が微妙なバランスで口に中にひろがる。
 将太がしみじみと至福を味わっていると、
「やっぱり、骨がちぎれてしまいましたなあ」
 塩焼きを見下ろして、多津がため息まじりに言った。
「串打つときは、骨に当たらんようにせなあきまへんのえ」
 きちんと骨を避けて串を打てば、簡単に骨抜きができるのだそうだ。
 将太は箸で骨を取りながら、ちらりと凛を見た。凛は見事に鮎の骨を抜いている。
「あ、おまえんとこのは、うまいこと打てとったんやなあ」
 思わず、うれしくなってそう言った。
「みたいだね」
 わずかに口の端を上げて、凛は答えた。
 昼食は諾々と進み、デザートの蜜豆が配られた。
「ときに、逢坂はん」
 多津はスイカをスプーンですくいつつ、言った。
「なんや、おばーちゃん」
「あんた、お盆はどうしはるんえ」
「どうってべつに……まあ、家族で墓の掃除に行ったり、お寺さんに来てもろたりするぐらいかな」
「ご長男やから、いろいろお忙しいことどっしゃろなあ」
「いやあ、盆は親父がおるから、おれはたいしてすることないけど」
「ほな、お暇どすか」
 多津はスプーンを置いた。
「お暇やったら、お盆のあいだ、凛の勉強を見たっておくれやすな」
「へっ……勉強?」
 将太は食べかけの寒天を、ぼとっと小鉢の上に落とした。
「あ、ごめん。……おばちゃん、ふきん取ってえな。シロップ、こぼしてしもたわ」
 将太は小鉢をどけて、膳の上を拭いた。多津はそれを一瞥し、
「不細工なことどすな」
 と、いかにも彼女らしい感想を述べた。
「悪い悪い。ちょっと手がすべって……せやけど、勉強ていうても、凛は学年で五本の指に入るんと違うんか?」
 めぐみの情報によれば、学年二位らしいが。
 凛の通う藤ノ宮高校は独自のカリキュラムを持つ私立の男子高で、大学への進学率はほぼ百パーセント。全国レベルでもトップクラスの高校である。その高校で五指に入るほどの学力のある凛に、なにを教えられるというのだろう。
「いまのところは、そうどすなあ」
 多津はうなずいた。
「せやけど来年は受験もおますし、学校の勉強だけではおぼつかんこともぼちぼち出てきますわな。せめて一週間でも十日でも、逢坂はんに来てもろたらどうやろうかと思うたんどすけどなあ」
 将太はがっくりと肩を落とした。
「それやったら、ますますおれなんかに頼んでもあかんで。おばーちゃんも知ってる通り、おれはバイト三昧の毎日やし」
「そうどすか? そら残念やなあ」
 多津はしみじみと言った。
「まあ、気が向いたらまた遊びに来とくれやす」
 ごちそうさん、と手を合わせ、多津は立ち上がった。
「お茶は部屋にな」
「へえ、あとでお持ちいたします」
 ふみが給仕盆を手に、ぺこりとお辞儀をした。将太も軽く頭を下げる。
 多津が午睡のために自分の部屋に引き上げたあと、将太はふーっと大きなため息をついた。
「いやー、まいったわ。おばーちゃんも、なに考えてはるんやろ」
 全国模試のトップ100に何人も名前を連ねるような名門校に通う凛に、自分が勉強を教えられるわけがないではないか。
 自慢ではないが、規模が大きいだけが取り柄(と言っては悪いが)の、いまの大学に合格したのだって、運がよかったとしか思えないぐらいなのだから。
「なあ、凛。おまえ、なんか聞いとるか?」
「べつに」
 蜜豆の最後のひとくちを口に含んで、答える。ゆっくりと咀嚼してから飲み込み、そっとスプーンを膳にもどした。
「ごちそうさまでした。……榎木さん、ぼくもお茶は部屋でいただくから」
 そう言うと、すたすたと廊下に出ていく。
 座敷に置き去りにされたような格好になった将太は、ふたたび大きくため息をついて、足を投げ出した。
「なあなあ、おばちゃん」
 お膳を片付け始めたふみに、話しかける。
「おばーちゃん、どういうつもりなんかなあ」
 多津の気性を知り尽くしているふみは、くすくすと笑い出した。
「大奥さまは、逢坂はんがお気に入りなんどすわ」
「へ?」
「凛さんにもようしてくれはって、ご自分の言うことも聞いてくれはりますやろ。大奥さまはきっと、それがうれしいて思うてはるんどす」
「……そんなもんかいな」
 本庄家ほどの旧家なら、取り巻きが山ほどいても不思議ではない。しかし、将太が知るかぎり、この家に出入りしているのは先代から付き合いのある者がわずかにいるだけだ。町の名士であるだろうに、ふだんは訪ねてくる者もいない。
「もしかして……寂しいんかな、おばーちゃん」
 ぼそっと、感想をもらす。ふみはそれを聞いて、感慨深げにうなずいた。
「早うに先代さんを亡くしはりましたからなあ。それからはこのお屋敷を、おひとりで切り盛りしはって」
「あの……こんなこと聞いてええんかどうか、わからんのやけど……」
 将太はおそるおそる、切り出した。
「なんどす?」
「凛の両親て……どんな人やったか、おばちゃん知ってるか?」
 二親ともいないと、以前、凛から聞いたことがある。
「お嬢さんは、利発なおかたどしたなあ」
 ふみは、持っていたふきんを座敷机の上に置いた。
 多津と本庄家の先代、本庄源太郎とは長いあいだ子宝に恵まれなかったらしい。当時はまだ「三年子なきは去れ」ということばがまかり通っていて、多津は周囲から多くの非難を受けたそうだ。そんな中、源太郎は多津をかばって、離縁を勧める親戚を遠ざけて奥の屋と呼ばれる別棟を新築した。
 それから一年あまりして、女の子が生まれた。それが凛の母親だ。
「なんでも、小さいころから周りの空気を読むのが早いおかたやったらしゅうて、大奥さまもこれなら総領娘として立派にやっていけると思うてはったそうどすわ。ほんまやったら、ご自分の選んだお人と一緒になってほしいて思うてはったんやろけど」
「違うたんか」
「へえ。お嬢さんは、絵画教室の講師をしてはった人と結婚したいて言うて……。そのころ、うちはもう所帯を持って若狭の方におりましたさかい、詳しいことは知りまへんけど、なんでもお嬢さんは、そのお人と添えなんだら一生独り身でおるて言わはったそうで。さすがの大奥さまも折れはったんどすわ」
 結局、婿養子に入るということで話がまとまったのだが、その結婚は一年ほどで解消されたという。
「そのあとのことは、うちにもようわかりまへんけど……お嬢さんのことは、ここでは禁句どすさかい。逢坂はんもそこんとこ、よろしゅうにな」
 やんわりと、釘を差す。
 将太はますます、深くため息をついた。
 なんや、複雑な家やな……。
 親がいないと聞いたときは、ただ「かわいそうに」としか思わなかった。が、いまの話からすると、凛の両親はその生死すら明らかではない。
 凛は、知っているのだろうか。両親の消息を。
 禁句。
 ふみのことばが、将太の胸に残った。知らずにすむことならば、そのままでいた方がいいこともある。
 これは自分が踏み込む領域ではない。
 将太は黙って、自分のお膳を持って台所へ向かった。