Sometime,Somewhere     by 近衛 遼




ACT2

 相馬の家は、まったく人の気配がなかった。しん、とした不動の空間がそこにある。
「おまえ、ほんまにここで毎日寝起きしてんの」
 玄関を入ったとたん、久御山は言った。
「している」
 端的に、相馬は答えた。
「他に家はないからな」
「そら、そうやろけど……おやっさんらはどこ行ってんのん?」
「父はドイツ、母は中国、祖父はエジプト、祖母はイギリスだ」
 大学教授の父はドイツに留学中で、ジャーナリストの母と考古学者の祖父、そしてエコロジストの祖母も、年中、各国を飛び回っている。
「ふーん。えらい、まあ、インターナショナルなことで」
 久御山はそううそぶきつつ、スニーカーを脱いだ。
 リビングには低いソファがふたつ、L字型に置いてあった。出窓や飾り戸棚には海外の土産物の人形や置物が所狭しと並んでいる。
 相馬は冷蔵庫からケーキを取り出した。昨日の残り物だが、まだ大丈夫だろう。皿に移してリビングに運ぶと、
「あれえ、これ、『カリドール』のケーキやん」
 一目見て、久御山が叫んだ。
「相馬、まだあんなとこまでケーキ買いにいってるん?」
 「カリドール」は隣町の洋菓子店で、電車で二駅の距離にある。
「母があの店を気に入っていてな」
「へーっ。まあ、たしかにあそこの生クリームはイケてるけど」
 ひょいと手をのばして、クリームを指ですくう。ぺろりとなめて、
「なんや、これ。ベタベタやな」
「そうか?」
「……もしかして、昨日のん?」
 訝しげな瞳。
「そうだ」
 事実を告げると、久御山はため息をついた。
「生クリームは一日たったら味が落ちるんや。スポンジかてパサパサするし……あー、もったいなー。マスターやママさんが泣くで」
 久御山がぼやいている横で、相馬はほうじ茶を入れた。ことりと湯呑みを置くと、またしても久御山がため息をついた。
「ケーキにほうじ茶かいな。コーヒーとか紅茶は……」
「あるはずだが、どこに仕舞ってあるのか不明だ」
 ふだん、相馬は煎茶かほうじ茶しか飲まない。
「『不明』って、水屋か台所探したら……あー、もう、しゃーないなー。ま、甘ったるいジュースよりマシか。ほな、いただきまーす」
 言うが早いか、ケーキを頬張る。生クリームがどうのスポンジがどうのと言っていたわりには食いっぷりがいい。
 余程、空腹なのだな。
 相馬はそう結論づけ、次の行動を思案した。


 再会したのは夕刻だった。そして今、時計の針は午後八時を回っている。
 リビングの丸テーブルには、デリバリーのピザの空箱が乗っていた。側にはコーラとウーロン茶の空缶。コールスローサラダは半分ばかり残っている。
「あー、うまかったわ。ごっそさん」
 ケーキに引き続きLサイズのピザの三分の二を平らげた久御山は、バチッと両手を合わせて頭を下げた。その大袈裟な所作を、相馬はローチェアーにあぐらをかいた姿勢で見つめた。
 とりあえず、満腹になったらしい。テーブルの上を片付けようかと考えたとき、
「えらい、おそなってしもたなあ」
 久御山は壁の掛け時計を見て、言った。
「ほな、そろそろ……」
 言いながら、ソファから腰を上げる。
「帰るのか」
「ああ。もう時間が時間やし」
「どこにだ」
 さらりと、相馬は訊ねた。おそらく、一番訊かれたくない事を。
 途端に、久御山の表情が強ばった。
 そうか。こんな顔もするのか。この男は。
 この二年、久御山がどこでどうしていたのか、相馬は知らない。知りたいとも思わない。しかし今現在、久御山に帰る場所はあるのだろうか。
「……どこでもええやん」
 久御山はプイ、と顔を背けた。相馬の視線は動かない。かつての同級生は、血管の浮いた白い手をぎゅっと握り締めている。
「おまえは……」
 下を向いたまま、久御山は呟いた。
「なんも訊かへんねんな」
「だから、どこへ行くのかと訊いている」
「そやのうて!」
 久御山は顔をしかめて向き直った。
「なんで、おれがおまえんとこに来たんかって……」
 言いかけて、固まる。
「久御山?」
 次の言葉を促す。が、久御山は再び目を逸らした。
「冗談や。……帰るわ」
 ぼそっとそう言って、リビングのドアに向かう。その手首を、相馬が掴んだ。
「え……」
 久御山は振り向いた。相馬の真摯な目が、そこにあった。
「なにすんのん」
「逃げるな」
「逃げるて、なんやねん。ちょっ……手、はなしてぇな」
「断る」
 相馬の手に力が籠もる。
「俺は、この手を離すわけにはいかない」
 久御山は頬を歪めた。
「……つっ……馬鹿力出してからに……」
「お前はいつも、当たり前のように笑っていた。何処にいても、誰といても。俺はそれが妙に腹立たしかった。だが、今の今まで、自分でもその理由が判らなかった」
「そんなん知らんわ! 離せ言うとるやろがっ!!」
 吐き出すように叫ぶ。相馬はその、悲鳴にも似た声を黙殺した。
「やっと、判った」
 頭の中でくすぶっていた疑問の答えが弾き出される。何故あれほどまでに不快だったのか。
「お前の笑顔は、いつもお前自身を隠していたからだ。俺はそれが……お前に欺かれていることが悔しかったのだ」
 お前だったから。だから……。
 言外に漂う感情の波。
 久御山は目を見張った。いま、自分が聞いたことが信じられないとでもいうように。
「多分、俺は知りたかったのだ」
 きっと、あの頃からずっと。
「お前が隠そうとしているもの、そうまでして見せたくないもの、全てを」
「相馬……」
 久御山は唇をわななかせた。
 何か言いたいのか。それとも、何も言いたくないのか。どちらともつかぬ不安定な顔。
 相馬はぐい、と久御山の体を引き寄せた。
「俺は、お前を全部、解りたい」
 相手の瞳の中に自分が認められるぐらいの距離で、言う。
「………」
 久御山の体から見る見る力が抜けた。糸が切れたように、がっくりとひざをつく。相馬はようやく拘束を解いた。
「は……はは……」
 久御山は両手で顔を覆った。もはやその面に、マニュアル通りの笑みは存在しない。
「ほんま、もう……かなわんわ」
 擁壁は崩れた。
 久御山は、瘧(おこり)のように震える躰を眼前の男に傾けた。