Sometime,Somewhere by 近衛 遼 ACT1 あいつの名を呼ぶ。あいつは振り向く。 一瞬の無表情。そして、千分の一秒後の笑顔。 「なんや?」 滑らかに流れ出す言葉。 時間の寸断を感じさせないように、あいつは止め処無く話し続ける。その言葉に、果たして意味はあったのだろうか。 確かに、一定の意思の伝達は為されていたと思う。が、それだけだ。 その場その場で一番適切な、相手が最も求めている言葉を選んで発していたに過ぎない。 『言葉』……? 否。それは正確ではない。あれはおそらく、便宜上の記号だった。知りうる限りの単語を駆使して、あいつは自分の周囲に高い擁壁を築いていたのだろう。 俺は、あいつの笑顔が不愉快でならなかった。何故かは分からない。未だに答えは出ていない。あれから二年たった今も、俺はその理由を考えている。 久御山。 お前がこの町を出てから、ずっと。 春だった。 世間では、彼岸の中日だとかで花屋や菓子屋が賑やかだ。 相馬達海(そうま たつみ)にも当然、詣でるべき墓はありご先祖様もいる。しかし、最も近い先祖……すなわち両親と祖父母が不在の今は、一人で墓参りをする気にもならなかった。 春休みは通常、宿題などはない。が、相馬の通っている高校は地元では名の知れた進学校で、「進級準備」として夏休み並みの宿題が出されていて、休みと言えども遊びに出かける暇もなかった。もっとも相馬には、休日を共に過ごしたいと思うような友人や恋人はいないのだが。 一人でいることに、別段感慨はなかった。元々、物理的にも精神的にも一人であることと集団の中にあることに大きな差異を感じていないし、いずれの場合であっても、最終的に何かを判断するのは己であることに変わりはない。 相馬は土手に腰を下ろして本を読んでいた。夕日が川を灰朱に染めている。 そういえば、ちょうど今頃だったな。 ふと、記憶がある一点に遡る。 二年前、この場所で。時間はもう少し遅かったか。 日が没した後の薄闇。その中に浮かんだ淡い金髪。 無意識のうちに、あいつがいた場所に目をやっていた。当然ながら誰もいない。 そろそろ帰ろうか。いや、まだいいだろう。家に帰っても、結局、この本の続きを読むだけだ。 そんなことを考えながら、再び手元に視線を落とす。先刻、図書館で借りた生物学の本だ。 と、そのとき。 急に、目の前に影が出来た。反射的に顔を上げる。 記憶の奥にあった、笑顔。それが自分を見下ろしている。 何かの間違いだろう。そう思考した直後、その「間違い」が間違いであると知らされた。 「相馬、あいかわらず本の虫やなあ」 「間違い」ではないその人物が、声を発したからだ。 奇麗な金茶色の髪は、首の後ろで無造作に束ねられている。 「なに読んでんのん。……うわー、またむずかしそうなモンを」 久御山俊紀(くみやま としき)は、ハードカバーの本の表紙をピン、と指ではじいた。 「……どうして、久御山がここにいるのだ」 とりあえず、疑問を口にする。久御山はニヤリと笑って、 「そんなん、おまえに会いにきたに決まってるやん」 まただ。この笑顔。 相馬は久御山を見上げた。 「……俺に、か」 「そや。ひさしぶりやなあ、相馬。元気にしとったか?」 久御山は相馬の横にすわった。 「ああ」 短く答える。 元気だった。この二年、病気らしい病気はしていない。それは事実だ。 夕日が川の下流に沈み始めた。空の色が変化していく。お約束のように烏も鳴いている。風がさわさわと流れ、川縁の草を揺らしていった。 二人は、川を見つめたまますわっていた。 「……なあ」 しばらくして、久御山が口を開いた。 「何だ」 「なんで、だまってるん」 「別に」 数瞬、次の言葉を考える。相馬はちらりと久御山を見た。 「話す必要がないと考えたからだ」 久御山はそれを聞くと、目を見開いた。 「は……そうかー。へいへい。おまえには必要ないんやな」 幾分、困惑した顔。相馬は本を閉じて立ち上がった。 「では、行くぞ」 「へっ?」 久御山は視線を上げた。?マークが顔に張り付いている。相馬は真面目な表情で、 「来ないのか?」 「行くって、どこにや」 「俺の家だ」 「なんでおれが……」 「久御山は俺に会いに来たのだろう?」 「おまえなあ、そんなん、ただのシャレやて」 久御山は肩をすくめて苦笑した。相馬は、まっすぐに久御山を見た。 「そうなのか?」 「え……」 「お前は、それでいいのか」 相馬は視線を外さなかった。久御山の栗色の目が、先に折れた。 「あいかわらずやなあ……」 小さく頭を振る。相馬はそれを承諾と解して、歩き出した。後ろを見ることはしない。 久御山はため息をつきながら、相馬のあとに続いた。 |