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 by 近衛 遼




ACT7
 過去を語るその顔は、まるで最後の懺悔をする囚人のように見えた。
 否。実際にそういう人間に遭遇したことはないので、あくまでも印象としての話だが。
 とつとつと紡がれる言葉。雪解けの時期に氷柱から落ちる雫の如く。
 話しながら、久御山は自分自身と対話していた。自分が歩いてきた道を、再度辿って。
 お前は俺を強いと言う。だが、俺に言わせれば、お前の方が何倍も強い。お前はたった一人で耐えたのだから。
 相馬は久御山を抱きしめた。抱きしめずにはいられなかった。
 お前はまた、一人で耐えるつもりだったのか。今度も、また。
 体温が伝わってくる。鼓動も、息も。
 山も田畑も黄金に染まるころ、二人はゆっくりと、来た道を戻りはじめた。


 あおばサナトリウムの第二病棟。
 一階の受付で、再度、面会者名簿に名前を記入する。見舞客の出入りは、かなり細かくチェックされているようだった。
 今日は面会日。受付の右手奥にあるエレベーターから何人かが降りてきた。俯き加減にそそくさと通りすぎていく者の多い中に、一人だけ背筋をぴんと伸ばして、ゆったりと歩いてくる人物がいた。
 年は、六十前後だろうか。鈍色の着物に濃い群青色の羽織。穏やかな顔つきとは対照的に、その眼光は見る者に畏怖を感じさせるほど鋭かった。
「あ……」
 久御山の足が、ぴたりと止まった。初老の男の視線が向けられる。
 一瞬、男は目を見開いた。口角がわずかに上がる。男はまっすぐに、こちらに向かってきた。
「元気そうやな」
 やや高い声。
「せやけど、なんや。そのナンバ(トウモロコシ)みたいな頭は」
「……なにしに来てん」
 問いには答えず、久御山は言った。男は憮然とした表情で、
「なにしに来たとは、えらい言われようやな。わしは毎月、来とる」
「え……」
「ここの支払いもあるし、みなさんにご挨拶もせなならんからな」
 言いながら、横を通る看護婦に会釈する。
 これが久御山の父親か。
 相馬は泰然としたその男を観察した。数百年続いた老舗のあるじ。店を守り、育ててきた職人。厳しさと懐の深さの両方を兼ね備えた人物のように見受けられた。
 もしかしたら。
 相馬は思った。この男は誤解などしていなかったのではあるまいか。
 久御山が桜の落雁に手を出したとき。つまみ食いだと思ったのではなく、ただ純粋に「作品」としての落雁に触れてほしくなかったのかもしれない。
 菓子は作品であり、商品である。職人でもない子供に、触らせるわけにはいかなかったのだろう。
 作業場に余人を入れることを嫌っていたこの男が、久御山が出入りすることは黙認していた。それが最大限の譲歩だったとしたら。
 同じような人間を、相馬は知っていた。祖父である。
「おまえ、宿は」
 男が訊いた。久御山はぐっと唇を結んでいる。
「なんや、宿も取ってへんのか」
 あきれたようにそう言って、男は懐紙になにかを書き付けた。
「物置き代わりに借りたとこやけど、とりあえず雨露はしのげる」
 鍵とともに差し出された紙を、久御山はまじまじと見つめた。
「行く行かんは、おまえの勝手や」
 しばらく、二人とも動かなかった。ぴん、と張りつめた空気。相馬はそれを見守った。
 しばらくして、ようやく久御山の手が動いた。無言のまま、鍵を受け取る。
「これは返さんでええ」
 過去の確執など微塵も感じさせず、男はすたすたと息子の脇を通りすぎた。すれ違いざま、相馬に目礼する。相馬もそれに応えて、軽く頭を下げた。
「……来てたやなんて……」
 独り言のように、久御山が言った。紙片を握り締めた拳が震えている。
「そんなこと……」
 横顔は、真っ青だった。いまにも倒れそうなほどに。
「久御山」
 相馬は、その手をがっしりと握った。金茶色の髪がわずかに揺れる。
「行こう」
 静かに、言う。ちょうどそのとき、エレベーターのドアが開いた。


 311号室は、廊下の突き当たりにあった。名札は、ひとつだけ。どうやら個室のようだ。
 久御山の母親は、もう何年もここに入院しているという。下世話な話だが、費用は莫大なものだろう。それを、桜堂の主人はずっと支払い続けている。
 むろん、だからといって許されるわけではないし、償えるわけでもない。どんなことをしても、過ぎた時間を取り戻すことはできない。それでも、あの男はずっと通っているのだ。
 月に一度、支払いのたびにここを訪れて、自分の犯した罪と向き合っているのかもしれない。
 部屋の前まで来て、久御山は足を止めた。何事か、懸命に考えている。
 無理もない。何年かぶりに父親と会ったのだ。おそらく、顔も見たくないと思っていただろう。自分と母親の暮らしを壊した相手なのだから。
 相馬は久御山の手を離した。
「俺はここで待っている」
 ここから先は、自分が足を踏み入れるべきではない。
「……相馬」
 ドアを見つめたまま、久御山が言った。
「何だ」
「これ、預かっといて」
 しわくちゃになった紙片と鍵を差し出す。
「うむ」
 相馬は頷いた。鍵を上着のポケットに入れてから、紙のしわを丁寧に伸ばす。
「律儀やなあ」
 くすりと、久御山は笑った。
「ほな、行ってくるわ」
 軽く手を上げて、久御山はドアの向こうに消えていった。


 どれぐらい、たっただろう。
 あえて時計は見なかった。久御山の心が感じる時間を、自分も感じたかったから。
 何人かの看護婦が、ほかの病室の明かりを消し始めた。もう消灯の時間なのか。
 四十歳ぐらいの大柄な看護婦が、相馬に会釈してから病室に入った。カーテンの向こうに「おやすみの時間ですよ」と声をかける。
 ふわりとカーテンが開いて、久御山が出てきた。
 目が赤い。こころなしか、まぶたも腫れているようだ。
「お待たせ」
 照れたように笑って、久御山は相馬の腕を取った。
「おなかすいたわ。なんか食べにいこ」
 明るい色の髪が、頬に触れる。
 泣けたのだな。夢の中ではなく、現実に。
 長い廊下を並んで歩きながら、相馬は心から安堵した。