HOME by 近衛 遼 ACT6 母は、舞妓だった。 生まれは山陰の漁師町で、早くに両親を事故で亡くしたと聞いた。中学卒業と同時に祇園の置屋に来て、四年。老舗の和菓子屋の主人に見初められて芸妓となった。そして。ほどなく彼女は身籠もった。 子供を引き取りたい。 男はそう言った。江戸時代から続くその和菓子屋は桜堂といい、現在の主人は九代目だった。男には正妻とのあいだに子供がなく、生まれた子供を桜堂の跡取りにしようと考えたらしい。 『いやどす』 母は訴えた。 『旦那さんにはようしてもろて、ありがたいて思うてます。けど、それとこれとは……』 正妻の反対もあって、一旦その話は流れた。が、とうとう、男は正妻を説得した。店を守るという大義名文。正妻は首を縦に振った。 『正式に桜堂に入るからには、向こうさんとは一切、縁を切ってもらわなあきまへんわなあ』 正妻は主張した。男はそれを母に伝えた。母は泣いた。泣いて、泣いて。それでもどうしようもないと知って、大量に薬を飲んだ。 一命はとりとめたが、彼女の心は帰ってこなかった。いまも、彼女は夢の中にいる。 「けど……ときどきは、ちゃんとおれのこと思い出してくれてん」 久御山は蒼天を見上げて、言った。 「それが、この手紙か」 相馬は、たった一通残っていた古い手紙を手にした。 「おれが桜堂に行ってすぐに来た手紙や。おかみさんに取り上げられそうになったけど、なんとかひったくって逃げたんや」 『捨てておしまいやす』 桜堂の女将は、幼い自分を見下ろしてそう命じた。 『いやや』 女将の手を払って、逃げた。路地を走って、曲がって。帰り道もわからなくなるほどに、逃げた。 あのあと、母は手紙を書くことも止められたらしい。いや、届いた手紙があったとしても、きっとすぐに捨てられてしまったのだろう。 会いたくても会えなくて、声を聞きたくても聞けない。そんな毎日だった。 父は昔気質の男で、店の職人たちにも厳しかった。それでも職人たちは父を慕っていて、自分にはそれが不思議でならなかった。 なんで、あんな男がにいちゃんたちに好かれてるんや。 ときおり仕事場を覗くようになった自分を、父は黙認した。あとから聞いたところによると、それは希有なことだったらしい。父は部外者が仕事場に足を踏み入れることを嫌う人間だった。 あるとき。父は、店の看板商品である桜の落雁を作っていた。桜堂の落雁は、それこそ初代から引き継がれた名菓で、その木型は店の宝とも言えた。 きれいやなあ。 子供心に、そう思った。できたばかりの落雁に手をのばした。直後。 視界が銀色に歪んで、体が横に飛んだ。 目が回る。耳の奥がキンキンする。なにが起こったのか、しばらくわからなかった。床が目の前にあって。 『出ていけ!』 頭の上から、怒号。 やっと、自分が殴られたことに気づいた。 『なにしとる。早う出ていけ。店の品もんに手ぇ出すようなやつは、この家にはいらん』 そんなつもりではなかった。ただ、あまりにもきれいだったから。 『違うねん、おれ……』 『なにが違う。しょうもない言い訳をするんやない』 断じられて、もうなにも言えなかった。 信じてもらえなかった。話もきいてもらえなかった。 おれをほしいて言うたんは、あんたやないか。おかあちゃんがあんな思いまでしたのに。それなのに、おれの言うことはなんも聞かんで、もういらんやて? 三年、我慢した。おかあちゃんに会われへんでも。声も聞かれへんでも。けど、もういやや。 立ち上がる。作業台の上にあったものを勢いよく横に払う。作ったばかりの菓子と、木型が壁の近くまで飛んだ。 息を飲む声。悲鳴。怒声。見開かれた父の目。 『あほんだら!』 叫んで、飛び出す。 そのあと。二晩、家に帰らなかった。三日目の夕方にゲームセンターで補導されるまで。 「学校にも、行かんようになってな」 ぽつぽつと、話す。 「うむ」 「で、桜堂と古い付き合いのあった絵描きのじいさんがおれを預かるて言うて……」 『なかなか、面白い奴だな』 にんまりと笑って、老画家は言った。 『まあ、学校なんぞ行かんでも、やることは山ほどあるからな』 登校拒否をしているあいだ、やたらとこきつかわれた。逃げようとして庭の木にくくり付けられたこともある。学校に通うようになったのは、東京に来て二カ月後だ。 「生活費は送られてきとったけど、そんなん使うの、いややったし」 「なるほど。それで、いろいろとアルバイトに精を出していたのか」 中学時代のことを思い出したのか、相馬はうんうんと頷いた。 「そーゆーこっちゃ」 中学卒業と同時に、桜堂から送られてきていた金は全額返した。老画家もそれに反対はしなかった。 「なんや、もう、みーんな昔のことみたいや」 「二年八カ月前だ。昔というには、少し早すぎるようだが?」 「おまえにとっては、そうなんかもな。けど……」 久御山は横を向いた。 「おれには、十年も二十年もたったような気がするんや」 おまえとはじめて会ったときのことも。おまえの前から姿を消したときのことも。 「俺たちはまだ二十年も生きていない。従って、それは錯覚だ。事実から目を背けてはならん」 「……強いなあ、おまえは」 目を伏せて、かぶりを振る。 「おれは、そんなに強うない」 「俺は、自分が強いとは思っていないぞ」 相馬はむっつりとした顔で言った。 「強くなりたいとは思う。それはつまり、まだ強くなっていないということだ」 「なんや、禅問答みたいやな」 「禅の修業をした経験はない」 「わかっとるわい。言葉のあややがな」 久御山は苦笑した。なんとなく、呼吸が楽になっている。 やっぱり、おれは卑怯や。こいつの気持ちにつけこんで。 「……どうしようもないな」 「なんの話だ」 「サイテーやて言うてるねん。おれはおまえを利用しただけやねんから」 相馬の瞳が、さらに強い意志を持つ。 「利用、したのか」 「ああ、したわ。おまえがおれをほしがってるんを利用して、おれは自分を慰めとった。おかあちゃんのことも、桜堂のことも、なにもかも忘れとうて……」 言うた。言うてしもた。 もう、終わりやな。今度こそ。 相馬が立ち上がった。腕を掴まれ、引き上げられる。殴られるんかな。そう思った。 ええよ。なんぼでも殴って。おれは、それだけのことをしたんやから。 いまさら好きやなんて、言われへん。本当はおれも、おまえがほしかったなんて。 「え……」 がっしりと、抱きしめられた。胸が圧迫される。痛い。 「それは違う」 耳のすぐ横で、相馬は言った。 「違うて……」 「俺はお前を解りたいと言った。お前は受け入れた。あの時……」 腕をゆるめ、語を繋ぐ。 「俺が、お前を利用したのだ」 「相馬……」 「お前の心が均衡を欠いていることを知りながら、お前に触れたのだから」 ああ、またや。 力が抜ける。また、おれは救われてしまう。 相馬の心は大きい。とてつもなく大きくて、広い。正も負もまるごと包んでしまうほどに。 「……おまえには、かなわんわ」 久御山は相馬の肩に額をつけた。 「おれがこんなに悩んどるのに……アホみたいやんか」 「そうか?」 「そうや」 おれはアホや。こいつはずっと、変わらずにいたのに。 日が西に傾く。山の端が黄金色に輝いて。 秋風の中。ふたりはしばらく、そのまま動かなかった。 |