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 by 近衛 遼




ACT8
 バス停からなだらかな坂道を上ること十分あまり。
 その家は竹林に囲まれていた。
「物置きにしては、大層なもんやな」
 月明りの差し込む庭は、まるでそこに住む人がいるかのように手入れされている。久御山は玄関の戸を開けた。
 ほんの少し、湿った空気。電気を点けて、奥へと進む。中も掃除が行き届いていて、綿埃ひとつない。
『わしは毎月、来とる』
 あの男の言葉が甦る。毎月、病院を訪れて、毎月、母の顔を見ていたというのか。自分が東京に行ってからも、ずっと。
 顔面を思いきり殴られたような気がした。
 中学を卒業した日から、自分は母に会っていなかった。なにもかも忘れ、いわば夢の世界にいる母を見るのがつらくて。
 そう。自分は逃げたのだ。ともにいたいと願いながらも、自分に応えてくれぬ母を認めるのがこわかった。
 どんな思いで、あの男は母を見つめつづけたのだろう。この五年あまりのあいだ。
「暖房器具はないのか?」
 部屋を見回しながら、相馬が言った。
「外とあまり温度差がないように思うのだが」
 たしかに、寒い。古い木造家屋である。どこからかすきま風も入ってきているようだ。
「あると思うけど……そこらへん、開けてみよか」
 久御山は押入の中を調べた。とりあえず、蒲団はある。毛布も、枕も。
 しばらく使っていないのだろう。ひんやりとした手触り。久御山はその蒲団を引っ張り出した。
「ほら、おまえも手伝うて。ストーブなんかのうても、ひとつ蒲団にふたりで寝たらあったかいし……」
 冗談まじりに言う。もちろん、本気で。
「お前がいいなら、異存はない」
 ぼそりと言って、相馬は蒲団を敷きはじめた。敷き蒲団にシーツをかけてから、掛け蒲団を広げる。薄緑の真綿の蒲団。
「え……」
 久御山は目を見開いた。
 この色。この柄。ひざをついて、確認する。
 間違いない。これは昔、自分が使っていたものだ。
「まさか……」
 押入の中の蒲団を次々と出す。
「これも……これもや」
 皆、自分と母のもの。ということは……。
 隣の部屋に入る。箪笥が並んでいる。やはり、すべて母のものだった。
 和箪笥も整理箪笥も柳行李も鏡台も。なにもかも、昔のままに置いてある。いくつか引き出しを開けてみたが、母の着物や道具類がそっくりそのまま入っていた。
「こんなもん……もうとっくに捨てられたと思うてたのに」
 自分が桜堂に入ってすぐに、母は入院した。その後、半年ほどして、それまで住んでいた町屋が再開発のために取り壊されたと聞いた。家にあった品物は、そのときあらかた処分されたと思っていたのだが。
 全部、置いとったんか……。
 台所の水屋もしかり。久御山は、のどの奥から沸き上がってくる笑いを抑えることができなかった。
 苦しい。胸が痛い。でも、笑うことは止められなくて。目の前にある相馬の顔が滲んで見えた。
「久御山」
 落ち着いた声。腕を掴む手。呼吸が、少し楽になった。
「相馬……おれ……」
「うむ。よかった」
「え?」
「ここは、お前の家なのだろう?」
 家。還る場所。ずっと前に失ったもの。
 それがここだというのか。まるでタイムカプセルの中に閉じ込められたような、この家が。
 いつでも住めるように手入れされた家。しかし、だれも住まぬ家。過去だけが住む家だ。
 久御山は首を振った。
「……それはちゃうわ」
「どう違う」
「たしかに、おかあちゃんのもんが残ってたんはうれしいけど、ここはおれの家やない」
 きのうまでの自分なら、この家に救いを求めていただろう。思い出の中にしか、やさしい時間はなかったから。母がそうであるように、自分も過去に逃げていたかもしれない。しかし。
「おれの家は、おまえや」
「俺が、家か」
 不思議そうな顔で、呟く。
「動物に例えられたことはあるが、無機物だと言われたのは初めてだ」
 至極真面目にそう言う相馬の肩に手を置いて、久御山はくすくすと笑った。
「もう、ほんまに楽しいなあ。せやから、好きや」
「そうか?」
「せや。ほんまに……好きや」
 唇を合わせる。ゆっくりと、体温を確認して。
 一枚、また一枚、着衣が下に落ちていく。肌が顕になる。ぶるっと震えがきたが、そんなことはもう気にならなかった。
 ほどなく、相馬が熱を与えてくれるだろう。そして自分も、それに倍する熱を返す。
 なにかを忘れるためではなく、知るために。おまえが「解りたい」と言ったのと同じように、おれもおまえを識りたいから。
 部屋中に散らばった蒲団の上に、ふたりの体が沈んだ。

 口付けと、愛撫と。それらを丹念に繰り返す。ふたりの息遣いが荒くなり、冷たかった体が火照りはじめた。肌が馴染み、自然と声が漏れてくる。いつものように指を噛もうとした久御山の手を、相馬ががっしりと掴んだ。
「ん……なんで……」
「聞きたい」
「え……」
「お前の声が聞きたい」
 アパートの壁は薄い。隣のテレビの音や話し声が聞こえてくることもよくある。逆もまた、しかり。が、ここならばその心配はない。
「そんなん……言うても……」
「嫌なのか?」
 脚をぐい、と持ち上げられる。久御山の中に相馬が侵入した。圧迫感に、一瞬、息がつまる。
「久御山……」
 声とともに唇が肌を吸う。指が脇から背に移動する。あちこちに火をつけられて、とうとう久御山はおのれを解放した。
 なにも隠すものなどない。弱くて、ずるくて、醜い自分。そんな自分を、この男は真向から受けとめてくれたのだから。
 相馬の前では、どんな仮面も、鎧も壁も必要ない。ただそのままでいればいい。思うままに、望みのままに、自分はこの男を求めていいのだ。
「……」
 熱い体を感じながら、久御山は至福の波に飲み込まれていった。


 ざわざわと、竹林の中を風が通りすぎてゆく。
 夜明けまであと少し。夢とうつつの狭間で、久御山は相馬の体が側にあるのを確認した。
 規則正しい寝息。ゆっくりと上下する胸。たしかな体温。
 安らげるこの場所は、やはり自分にとっての「家」だと思う。あたたかな、やさしい家。
 なあ、相馬。もうちょっとだけ、こうしてて。いつか、おれもおまえの家になるから。家は無理でも、せめてベッドぐらいには。
 おまえが疲れたときに、ゆっくり眠れるように。眠れない夜も、一緒にいられるように。
 だから、もうちょっと待っててな。おれが、強くなるまで。


 朝になったら、鍵を返しにいこう。そして、礼を言う。
 おかみさんや店の人たちにも、きちんと挨拶しなくては。もう桜堂に戻ることはないだろうが、三年間、世話になったのだから。
『おれはここで待っている』
 そう言う相馬の顔が目に浮かぶ。
『ほな、行ってくるわ』
 同じく、自分の顔も。
 大丈夫。
 きっと、ちゃんと歩いていける。

 もう、決して逃げない。

 (THE END)