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 by 近衛 遼




ACT5
 京都、出町柳。
 加茂大橋の下で、高野川と賀茂川が合流して鴨川となる。その中州に、久御山俊紀はいた。
 京都に着いたのは、昨朝。その足であおばサナトリウムに向かったのだが、どうしても中に入ることができなかった。
 川口看護婦によれば、母は無断で病院を抜け出して、雨の中を半日以上もさまよったという。
「このところ、ずっと『俊紀に会いに行くんや』って言っててね。私たちも気をつけてはいたんだけど」
 申し訳なさそうな声。わかっている。病院のスタッフがどれだけ親身になってくれているか。
 秋の雨は冷たい。ただでさえ体力のない母の体は、それに耐えられなかったのだろう。急性肺炎で、意識不明の状態だと聞いた。
 行かなければ。すぐに、行かなければ。
 そう思って、夜行バスに飛び乗ったのに。
 いざとなったら、母の顔を見るのが恐くなった。もう二年以上、会っていない。中学を卒業した春以来。
『どちらさん?』
 彼女は言った。少女のような顔をして。
『ああ、もしかして、俊紀のお友達?』
 おれや、おかあちゃん。おれや。おれが俊紀や!
 叫びたかった。でも、声が出なくて。
 川口看護婦がそっと腕をとってくれた。別室で医師から病状の説明を受ける。その言葉は、まるで記号のようだった。
 あれから。一度も会っていない。一方的にかかってくる電話で、声を聞くだけだ。
 日によって、母の状態はまちまちだった。自分の息子がまだ小学生だと思い込んでいるときもあったし、逆にとうに大人になって、働いていると信じているようなときもあった。
 彼女の中では、時間も空間も混在している。その日その日に、都合のいい時間と場所に彼女はいた。
 しあわせな時間の中にいるのなら、それもいい。現実なんか、見なくて済むのなら。
 久御山は、鴨川の両岸を繋いでいる飛び石の上にすわった。秋晴れの下、さらさらと澄んだ水が流れていく。
 幼いころ、よくこのあたりを散歩した。母とともに、三条から出町柳まで。ときには下鴨神社まで足をのばして、夕刻まで歩いた。
『ちょっと待ってえな。俊紀は足が早いなあ』
 紺地の浴衣を着た母が、団扇を片手に笑う。
『おかあちゃんは下駄やよって、そんなに早う走れんわ』
 夏、川縁には涼しい風が吹く。ジョギングをする人、犬を散歩させる人、そぞろ歩きをする人たちとすれ違い、あいさつを交わす。
『今日はちいと遅うおましたなあ』
 顔見知りになった人が声をかける。
『へえ。出掛けに荷物が届いたもんで』
 母は律儀にそれに答える。大人たちが立ち話をしているあいだ、幼い自分は飛び石の上で遊んだ。何度も何度も、岸から岸へ往き来して。
 ふいに、強い風が吹いた。
「うわ」
 一瞬、目を閉じた。前髪をかきあげて、立ち上がる。なにげなく視線を向けたその先に、見知った顔があった。
「え……」
 紺色のトレーナーにジーンズ。黒いナップサックを背負った男が、道路から川縁へ続く階段をすたすたと下ってくる。
 なんでや。
 久御山は目を見開いた。なんで、いま、ここにあいつがおるんや。
「久御山」
 少し低めの、落ち着いた声。ほんの半月ほど聞かなかっただけなのに、なんだか無性に懐かしい。
 相馬は久御山の前に立った。
「よかった」
 ほんの少し、口の端が上がる。
「では、行こうか」
「行くって、どこに」
「決まっている。あおばサナトリウムだ」
「……なんで、おまえがそんなこと知っとるんや」
 母親のことはおろか、自分が京都にいたころのことはなにも話していないはずなのに。
「すまない」
 相馬はぺこりと頭を下げた。
「お前の部屋を調べたのだ」
「なんやて!」
 カッとなって、叫んだ。
「すまなかった」
 ふたたび、相馬は言った。
「緊急事態とはいえ、お前のプライバシーを侵害してしまった」
 神妙な口調。久御山はぐっと拳を握り締めた。
「緊急事態って、なんやねん」
「お前が、いなくなったから」
「え?」
「どうしても、お前を探さなくてはいけないと思った」
 まっすぐな視線。久御山は横を向いた。
「なんでやねん!」
 苦しい。のどが痛い。
「なんでそこまで、他人の心配するんや」
「してはいけないのか」
 間髪入れず、問い返された。
「俺は、お前の肉親でも家族でもない。そんなことは分かっている。しかし、だからといって、お前を案じてはいけないのか」
 あいかわらずの直球だった。久御山は身をひるがえして、飛び石から中州へ渡った。下鴨神社へ続く道に向かって走り出す。
「逃げるな!」
 ぎくりとして、足が止まった。
 同じ台詞を、言われたことはある。二年ぶりに再会した日、相馬の家で。
 しかし、そのときとは比べものにならぬほど強い意志が、いまの言葉には込められていた。相馬の瞳が久御山を射貫く。動けなかった。一歩も。
「行こう」
 ふたたび、同じ言葉を言う。久御山はそれに従った。


 相馬を見て、川口恭子は目を見張った。
「あなたは……」
 言いかけて、やめる。すぐに看護婦の顔に戻って、
「久御山くん、よく来てくれたわね。おかあさん、さっきまで起きてたんだけど、いまは眠っているのよ。夕飯の時間には面会できると思うんだけど……」
「……助かったんか」
 ぼそりと、訊く。川口はにっこり笑って、
「ええ。もう大丈夫ですよ」
 大丈夫。
 その言葉を聞いた途端、なにかが頭の中で弾けた。四肢が小刻みに震え出す。
「久御山」
 相馬の手が久御山の腕にのびた。強い力で掴まれる。
「よかった」
「え……」
「危機的状況は脱したのだろう?」
 いかにも、相馬らしい台詞。
 そうだ。たしかに、命はとりとめた。しかし。
 なんら状況は変わらない。きっと、意識が戻っても彼女は、また自分で作り出した時間の中を漂うのだろう。そして、自分は……。
「帰るわ」
 相馬の手を払って、久御山は言った。川口は驚いたような顔をした。
「え、帰るって、久御山くん。どうして……」
「助かったんやったら、もうええ」
 くるりと踵を返す。相馬がなにか言っていたが、もう聞こえなかった。廊下を突っ切って、階段を飛ぶように走り降りる。
『逃げるな』
 相馬の声が何度も脳裡に甦った。それでも、走ることをやめられなかった。
 なんでや。なんで、逃げたらあかんのや。もう、おかあちゃんはおらんのに……。
 走って、走って、走って。
 心臓が痛くなるほど走って、やっと、足を止めた。
 両側には畑。山にはちらほらと紅葉。このあたりは秋が早い。流れる風も心持ち冷たくて。
 道端にすわりこむ。近くに人はいなかった。ただ風の音と、遠くで鳴く鳥の声だけが聞こえる。
 しばらくして、うしろから足音。
 来よったな。
 それがだれなのかは、振り向くまでもなかった。足音はだんだんとゆっくりになっていき、やがて止まった。
『久御山』
 名を、呼ばれると思った。が、予想に反して声はなかった。風がざわざわと流れていく。
 どれくらい、そうしていただろうか。とうとう久御山は顔を上げた。
 透明な日差しの中に、相馬が立っていた。じっと、こちらを見つめて。
 そうや。この目。
 ずっと怖れてた。なにもかも見透かされそうで、恐くて。
『お前を、全部、解りたい』
 あのときも、本当は逃げたかった。おれを全部、知られるのが恐くて。でも。
 逃げられるほど、強くはなかった。
 それはいまも同じ。
「相馬……」
 すがるように、久御山はその名を口にした。