HOME by 近衛 遼 ACT2 あれから。 あいつは来ない。連絡もない。 しゃあないな。あいつとおれは、他人。 あいつがおれを、求めてくれんかったら。 どうしたって、接点なんかない。おれはあいつを、利用してただけなんやから。 あいつに甘えてた。あいつの気持ちに便乗した。自分の苦しみを忘れるために。 そんなおれに、あいつを求める資格なんかない。あいつの道に、立ち入ることはできない。 これでよかったんや。短かったけど、あいつの時間を分けてもろた。それだけで、いい。あいつの温もりを、おれは覚えていられる。せやから。 また、朝が来た。 のろのろと起き上がる。今日は早出の日。顔、洗うて。歯、磨いて。髪もちゃんと結ばなあかんし。 「こんなこと言いたくないんだけど……なあ、トシ」 ゆうべ、新谷が言った。 「髪、切らないか」 厨房の床を拭いていた久御山は、モップを持つ手を止めた。 「おまえは陰日向なくよく働くし、中の仕事もそこそここなす。大将もおまえのこと、なかなか気概のあるやつだって言ってるんだ。だから……」 もっと重要な仕事を任せたい。だが、古株の従業員や客の中には、久御山の外見をよく思わない者もいる。 「いや、その、短くしなくても、きっちりくくるとか、黒くするとか……おまえが納得できる線で、考えてみてくれないか」 ええ人やな。久御山は常々、そう思っていた。 いろいろな人がいる中で、いろいろな考えのある中で、そのどれもに親身になって耳を傾けられる者は少ない。ただ聞いているだけなら、簡単だが。 自分のような気紛れな人間が、曲がりなりにもひとつところで半年以上も働いていられるのは、新谷がなにかにつけて気を配ってくれるからだ。以前ならばそれをうっとおしいと感じただろうが、最近はそんな厚意を素直に受けられるようになった。 ひとりだけで、生きているのではないと思いはじめたからかもしれない。相馬とともに過ごした時間、自分はひとりではなかったから。 洗面台の前で頭を振る。なに考えとるんや。もうあいつはおらんのに。二度と、ここには来えへんのに。 ドアの向こうに消える間際の、相馬の背中を思い出す。 店の裏口で、近くのスーパーで、あるいはコンビニや本屋で。あいつの姿を探すのはいい加減にやめよう。空しいだけだから。 潮時やな。もう、ここにおる必要もない。またどこか余所へ行って、仕事を探そう。少しやけどカネもある。住み込みの仕事なら、アパート借りんでもええし……。 久御山は心を決めた。新谷には悪いが、今月いっぱいで店を辞めよう。もちろんそれまでは、きちんと働かねば。 百円ショップで買った黒のゴムできつく髪を結び、着替える。なにかを食べる気にはならなかった。牛乳だけ飲んで、部屋を出る。 さわやかな秋の風が通りを渡っていく。久御山はいつもの道を、足早に歩いた。 「え、大将、事故ったん?」 店に着くなり、久御山は「来福酒家」の主人が交通事故で入院したことを知らされた。 「まいったよー。店を休むわけにはいかないから、非番のやつも呼び出した。トシ、悪いけど、今日は看板までいてくれないか」 新谷が真剣な顔で言った。これはどうも、辞める辞めないを切り出すどころではない。久御山はそう判断した。 「わかりましたー。で、おれ、中に入ってええんですか」 「頼むよ。まだランチの準備ができてないんだ。このままじゃ間に合わないから、急いで」 先月から始めたランチタイムのバイキングはかなり好評で、開店前から行列ができるときもある。久御山は言われた通り、厨房に入った。 こうして、早番も遅番もいっしょくたになったような日が続いた。さすがに疲労がたまってきて、何日かぶりにまっとうな早番の時間帯に帰宅した日。 階段をのろのろと登っていると、管理人室から重松が飛び出してきた。 「あー、トシちゃん!」 なにやら、あわてている。 「こんばんはー。どないしはったんですか」 「早く帰ってきてくれて、よかったよ。夕方から何度も電話がかかってきていてねえ。京都からなんだけど」 またかいな。 久御山はため息をついた。また彼女が昔のことを思い出して、発作的に電話をしてきたのだろう。 昔のおれを求めて。彼女のスカートにしがみついていたころの、おれを。 「何時でもいいから、電話をくれって言ってたよ。川口さんっていう女の人」 重松の言葉に、久御山は目を見開いた。 「……電話、借ります!」 下まで一気に飛び降りる。重松が目を丸くして、道を譲った。 なんや。なにがあったんや。 久御山の頭は混乱していた。 何時でもええからって……どういうこっちゃ。 重松の家の電話は、昔ながらのダイヤルだった。番号を回す時間がもどかしい。 コールが一回、二回。三回めが鳴り始めたところで、相手が出た。 「はい。第二病棟西館です」 「もしもし、川口さん? おれ……」 「久御山くん? よかった。やっと捕まえられて」 「川口さん、あの、何度も電話……してもろたみたいやけど……」 言葉が出てこない。意識しなければ、息をするのも忘れてしまいそうだった。 「久御山くん、落ち着いて。いまから言うことを、よく聞いてね」 ゆっくりとした口調で、伝えられる事実。 手が震えた。返事などできない。ただ、ふるふると頷いた。 受話器を置いたあとも、その場から動けなかった。手も足も、まるで自分のものではないようだ。久御山は自分が、遠隔操作をされている機械のように感じた。 「トシちゃん? ……トシちゃん、どうしたんだ。大丈夫かい?」 重松が心配そうに問いかけた。久御山の肩にそっと手を置く。 「……うそや……」 「え?」 「……そんなこと……おかあちゃん!」 久御山は重松の手を払って、管理人室を飛び出した。 うそや。そんなん、うそや。 ずっとあのままで、しあわせなままで、笑っていられるて思うてたのに。なにもかも忘れてしもて、なにもかもなかったことにして。 行かなくては。すぐに、行かなくては。 新幹線は、もう間に合わない。いまからなら、夜行バスか。 久御山はありったけの現金を持って、アパートを出た。 |