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 by 近衛 遼




ACT1
 逃げられるほど、強くはなかった。

 あの腕から。
 あの瞳から。


 彼女は泣いていた。低い声で。
 あの男が帰ったあと。彼女はいつも泣いていた。
 もうわかっているはずなのに。どうしようもないということが。
『おかあちゃん』
 襖の陰からとなりを窺う。
『もう、ええよ。おれのことやったら、もう』
 せやから。
 もう泣かんといて。なあ、おかあちゃん……。


 視界に、相馬の顔。
 久御山俊紀は、自分が夢を見ていたことに気づいた。
「あ……」
「起きたか」
「ん」
「起きるか」
 午前五時。たいした用もない日に、起きるには早い時間だ。
「いやや」
 相馬の腕に、頬を寄せる。
「もうちょっと、こうしてる」
「そうか」
 相馬のてのひらが、目尻に触れた。
「え……」
 やっと、その事実に気づく。
 おれ……泣いとったんか。久御山は顔をそむけた。
 冷たい涙をぬぐった温かいてのひらが、久御山の金茶色の髪を撫でる。一定のリズムで、ゆっりと。
 相馬はなにも訊かない。訊く必要を感じていないのだろう。すでに判っているから。
 眠りながら涙を流す。そのことの意味を。
 よっぽど、気ぃゆるんでるんかな。心の中で苦笑する。あんな夢、もう長いこと見てへんかったのに。
 生きていくのに必死だった。それこそ、その日のことしか考えられないほどに。そうやって自分を追い込まなければ、現実に潰されてしまいそうだった。
 それが、あの日。
 どうして、この腕を取ってしまったのだろう。
『逃げるな』
 相馬は言った。
『俺は、お前を全部、解りたい』
 まっすぐな瞳。まっすぐな心。怖れながらも魅かれていた、変わらぬ姿。
 ほんの少し、休みたかったのかもしれない。相馬の求めに応じて、なにもかも預けて、心の底に沈んでいる澱を忘れたかった。
 忘れられたと思うてんけどな。
 でも、それは錯覚に過ぎない。記憶に蓋はできても、事実が変わるわけではない。
 見つめられるたびに思い知る。自分がいかに弱いのか。そしてそのことを認めたくなくて、なにも考えないようにする。考えないですむように。
 久御山は肘をついて上体を起こした。
「どうした?」
 訝しげに、相馬が訊く。それには答えず、久御山は相馬の唇を塞いだ。
 長いキス。息が喘ぎになるほどの。
 涙。口付け。吐息。
 なあ、相馬。忘れさせて。いまの夢を。あのころのおれを。
 わずかに唇を離して、様子を見る。と、そこに、なんの感情も窺えない硬質の瞳があった。
 まさか、ずっと目を開けたままだったのだろうか。久御山は体を引いた。
「いややなあ、もう」
 ことさらに軽く言う。
「チューしてるときは、目、つむっといてえな」
「それでは、お前の顔が見えない」
「べつに見んでもええやん」
「見られたくないのか」
 直球だった。しかもストライク。変化球をファウルするつもりだったのに。
「目、つむるのんが礼儀やろ」
 とりあえず、無難な線で返す。
「俺は、見たい」
「悪シュミやで」
「趣味の問題ではない。感情の根幹に関わることだ」
「またむずかしいこと言うて……」
 相馬は久御山の二の腕を掴んだ。
「俺は、お前が欲しい」
 久御山は眉をひそめた。そんなことはわかっている。『お前を、解りたい』。そう言われたときから、ずっと。
 相馬はさらに言を続けた。
「しかし、お前は違う」
「え?」
「お前は俺を、欲しがっていない」
 断定だった。一寸の余地もない。
「それなのに、なぜ誘う」
 久御山の頭に血がのぼった。
「ええ加減にせえっ」
 相馬の手を乱暴に払って起き上がる。
「勝手な御託、並べんなや。おれがおまえをほしがってないて? なんで、そんなことがわかるんや。おれから迫ったらあかんのか!」
 のどがからからだった。乾いている。心も体も。
 相馬はじっとこちらを見ていた。問いかける眼差し。横一文字の口。
「……駄目だとは、言っていない」
 低い声で、呟く。
「ほな……ええやんか」
「うむ」
 ふたたび、久御山は相馬に近づいた。目を開けたまま、触れるだけの口付けをする。
 卑怯やな、おれは。わかってる。けど、もうちょっとだけ、このままでいたいんや。
 久御山の体がゆっくりと相馬にかぶさる。ふたりの息が、さらに深く交わった。


 結局。
 その後、二度寝をしてしまって、ふたりがふたたび目を覚ましたのは昼前だった。
 相馬は食事もとらずに大検の模試に出かけ、久御山は昨夜の残り物を胃に納めてからバイトに行った。
 繁華街の端にある中華料理店「来福酒家」。手頃な値段で本格的な味が楽しめると評判の店だ。久御山はもう半年以上、ここで働いていた。
「おはようございまーす」
 久御山は裏通りに面した通用口から中に入った。
 ランチタイムの終わった店内に客の姿はなかった。早出のバイト仲間がテーブルを拭いて回っている。
「トシ、遅刻だぞー」
 調理人の新谷が、厨房から顔を出した。
「すんませーん。そのぶん、遅うまで働きますわ」
「早く着替えて、中を手伝ってくれよ」
 新谷は、久御山がバイトを始めた当初からなにかと目をかけてくれていて、ふつうは教えないと言われている調理のコツなども、折りにふれて伝授してくれる。もっとも久御山自身は料理人になる気はないので、甚だ不熱心な生徒なのだが。
 それでも、この半年のあいだに客に出せるものがいくつか作れるようになっていて、手が足りないときは久御山も厨房に入っていた。今日は夕方から団体の予約があって、ホールも厨房も忙しい。
 久御山は制服に着替えて、念入りに手を洗った。指のあいだ、手首の上までしっかり消毒する。
 飲食業にとって、食中毒は命取りだ。厨房に入るようになってから、とくにそれを注意された。先月、近所の居酒屋がブドウ球菌の食中毒を出して、二日間の営業停止をくらった。その後、もちろん客足は激減している。
「トシ、野菜の下準備、やっといてくれ」
「はーい」
 まな板を消毒しつつ、答える。
 その日、久御山が帰宅したのは日付が変わって一時間以上たってからだった。


 トン、トン、トン……。
 控え目に、戸を叩く音がした。続けて、名前を呼ぶ声。
「トシちゃん、起きてるかい」
 久御山はむっくりと、起き上がった。ぼさぼさになった頭を二度ばかり振る。
 この声は管理人だ。久御山はドアを開けた。
「あー、おはようございますー」
「電話だよ。京都から」
 眠気が飛んだ。
「すんません」
 タンクトップに短パンのままで、管理人の横をすりぬける。いまにも壊れそうな階段を駆け降りて、管理人室に飛び込んだ。
 久御山の部屋には電話がない。携帯電話も持っていない。そのため、緊急時の連絡には管理人室の電話を使っていた。
「もしもし、久御山です」
 受話器の向こうから、よく知った人の声が聞こえた。


「大丈夫かね、トシちゃん」
 久御山が受話器を置いたあと、心配そうに管理人が言った。
 この管理人は重松という六十すぎの男で、もう十年以上もやもめ暮らしをしているらしい。子供たちは独立して遠方に住んでいて、自身はこの古いアパートで管理人として暮らしていた。なんでも久御山がいちばん上の孫に似ているとかで、電話の取り次ぎなども嫌な顔ひとつせずにやってくれる。
「顔色、悪いよ」
「あ、大丈夫です。いつもすんません」
「気にしなくてもいいよ。お互いさまだからねえ。なんだか、向こうの人は私のことを、トシちゃんのおじいさんだと勘違いしてたみたいだけど」
 なにやら楽しそうに、言う。祖父に間違われたのがうれしいのかもしれない。
 勘違いとちゃうねんけどな。
 久御山はため息をついた。本気でそう思っているのだ。彼女は。
 もう、なんにもわかってへん。おれの声を聞いても、もう……。
『どちらさん?』
 受話器の向こうで、彼女は言った。
『うちは俊紀を呼んだんえ。俊紀を出しとおくれやす』
 拗ねたような口調。
『日曜日やから、家にいてるはずえ。早う呼びよし!』
 だんだんと感情的になり、ついにはなにを言っているのかわからなくなった。そして。
 いきなり電話は切れた。ぷっつりと、無慈悲に。
 久御山は再度、重松に礼を言って管理人室を出た。とぼとぼと階段をあがる。
「久御山」
 下から、声がした。反射的に振り向く。
「どうかしたのか」
 相馬が、黒いナップサックを背負って立っていた。ゆっくりと階段を上がってくる。すぐそばまできて、相馬は久御山を凝視した。
「泣きそうな顔だ」
「……なんでもないわい」
 顔をそむけて、駆け上がる。部屋に戻ると、久御山は流しに頭を突っ込んで、一気に蛇口をひねった。生温い水が髪を伝って落ちていく。頬から鼻へ。唇へ。
 なんで、こんなときに来るんや。今日はべつに、約束してへんのに。
 言い様のない苛立ちが沸き起こる。久御山は水を止めて顔を上げた。雫がぽたぽたと滴る。相馬はその様子を、戸口から見ていた。
「で……なんか、用?」
 ぶっきらぼうに、久御山は訊いた。
「床が濡れるぞ」
 ぼそりと、相馬は言った。
「床のことなんか、おまえが心配せんでもええ。ここは、おれの部屋や。濡れようが汚れようが、おれが掃除したら済むこっちゃ」
 むちゃくちゃなことを言っているのは、わかっていた。が、止められなかった。自分がいちばん無防備なときに、踏み込まれたから。
「なにか、あったのか。電話をしていたようだったが」
 いつからおったんや。
 カッとした。自分の行動を監視されていたようで。
「おまえには関係ないやろ。用がないんやったら、帰ってえな」
「用なら、ある」
「せやから、なんの用やって訊いてるんや!」
 放っておいてほしい。いまは。それが駄目なら……。
 久御山は相馬に顔を近づけた。
「こんな時間から、やりに来たん?」
 その方がいい。こんなふうに心をかき回されるよりは。
 相馬はじっと、久御山を見つめた。ややあって、口を開く。
「お前は、逃げている」
 落ち着いた声。
「やかましい!」
 意識するより前に、久御山の手が相馬の頬を鳴らしていた。
「そんなん、おまえに言われる筋合いはないわい。おれはおれや。赤の他人が首突っ込むなや!」
 のどが焼けそうだった。相馬は打たれた頬に手をやることもせず、じっとしている。
 数瞬ののち。
「判った」
 短い答え。
「お前と俺が、他人であることは事実だ」
 相馬は踵を返した。
「邪魔をした」
 ぱたん、と、ドアが閉まる。
 相馬のいた空間が、ぽっかりと空いた。
「……相馬……」
 久御山はドアを見つめて、両手で腕を抱いた。爪が肌に食い込む。
 他人。そうや。おれとおまえは……。
 自分の発した言葉が、おのれを切り裂く。深く、ずたずたに。
 髪から流れ落ちるる水滴が、まるで涙のように久御山を濡らしつづけた。