真冬の猫  by 近衛 遼




 ごそごそとポケットをさぐり、田辺大亮はハンカチを取り出した。大きく息をついて、額をぬぐう。
「真冬だってのに、よくそんなに汗がかけるね」
 横から、馨が呆れたように言った。
「……緊張したんだよ」
「そう? どうして」
「どうして、って、おまえ……あんなこと言われて平気でいられるはずがないだろう」
 大亮はふたたび、ため息をついた。
「そうでなくても、こんなドでかい屋敷に連れてこられて腰が引けてたってえのに……」
 なにしろ、門扉から建物が見えない。インターホンで来意を告げ、敷地内に入ってから車寄せまで、ゆうに三分はかかったかもしれない。
「しかもここは『鎌倉の別荘』で、東京とパリとニユーヨークとシンガポールにも家があって、とどめはジュネーブには本宅だと? ケタが違いすぎて目眩がする」
 じつはほかにも、ドイツの古城とか南方の島とか、所有している不動産を数え上げるとキリがない。
「違いすぎるんだから、気にしなくてもいいじゃない」
 馨はくすくすと笑った。
「でも、本宅にあいさつに来いって言われなくてよかったね」
 たしかに、そうだ。交通費や滞在費は出してくれるかもしれないが、海外に行くとなると最低でも三、四日はかかってしまう。そうそうまとまった休みの取れない大亮としては、日帰りできる鎌倉で済んで御の字だった。
 馨の養父となる予定の篁一馬は、戦後、事業を起こして大成した人物で、実子はいないらしいが、世界各国の子供たちを養子にしており、それぞれの分野で一目置かれる地位に就かせていた。
「おまえが、馨か」
 時代劇に出てきそうな広い座敷に、篁一馬はすわっていた。白髪と鋭い眼光、彫りの深い顔立ち。声には年齢を感じさせない張りがある。
「はい。はじめまして」
 馨はきっちりとお辞儀した。ふだん、リビングの床にすわりこんでコーヒーを飲んでいたり、ソファーに寝そべって本を読んでいる姿からは想像できないほど、きれいな所作だ。
「話は聞いているな? おまえはわしの息子になる」
「はい。よろしくお願いします」
「まさか、この年になってまた子供を持つとは思わなかったが、おまえが生まれたころは、わしもまだ『現役』だったからな。ありえん話ではない」
 なんとも下世話な話である。が、馨はそれをなんとも思っていないようで、表情ひとつ変えなかった。一馬は満足げに頷き、
「で、書類はどうなっている」
 大亮たちの横にいた弁護士の加賀に訊ねる。加賀は鞄から封筒を取り出した。
「すべて、揃っております。御前の署名と実印がいただければ、明日にでも手続きをいたしますが」
「よかろう。あとで書斎に持って来るように」
「かしこまりました」
 それで自分の用は済んだと判断したのか、加賀は一礼して座敷を辞した。残ったのは、大亮と馨。
「田辺……と言ったかな」
 いきなり名前を呼ばれて、大亮は拳を握った。
「は……はい。田辺大亮といいます」
「いかんなあ」
 心底、困ったように一馬は言った。
「は?」
「そんなことでは、足元を見られるぞ。いま少し精進せんとな」
「……はあ」
「半年、やろう」
「半年?」
「それまでに、その情けない顔をなんとかしろ。できなければ、馨はジュネーブへ連れていく」
「え……そっ……それは……」
「あちらで教育を受けさせる。わしもそろそろ寿命が見えてきたからな。悠長なことは言っておられん」
 ほとんど脅しである。しかし、なんとかしろと言われても、この顔は生まれつきだ。どこをどうしろと言うんだ。
 汗がどっと出た。馨はそ知らぬ顔をしている。
「一緒に食事でもと思っていたが、それどころではなさそうだ。今日はもういい。会食は、次の楽しみに取っておくことにしよう」
 一馬は立ち上がった。
「馨。しっかり尻を叩いてやれよ」
 それまでにこりともしなかった一馬が、呵々と笑いながら広間を出ていった。


「……ったく、とんでもねえじいさんだぜ」
 もっとも、そういう人物でなければ、馨のような境遇の人間を養子にはするまいが、頭で理解するのと感情的に納得するのとは違う。さらにあれこれ考えていると、
「ねえ」
 馨が大亮の腕を引っ張った。
「ん? なんだ」
「お腹すいた」
 時計を見ると、もう一時近かった。
「そうだな。畜生、あのジジイ。嫌味だけ言ってメシも食わせてくれねえんだから……」
「あそこで食べたって、味なんかわかんなかったんじゃない?」
「……まあな」
 図星を指されて、大亮は肩を落とした。
「加賀先生はまだ用事があるみたいだし、電車で帰るか」
 駅の近くで、なにか食べよう。大亮は馨とともに、駅に向かって歩き出した。


 結局、シーフードグラタンにグリーンサラダ、パンとコーヒーというランチセットを食べてから列車に乗り、自宅に戻ってきたのは夕刻だった。
 精神的に、ひどく疲れていた。が、それと反比例するかのように、ある部分はひどく活動的になっている。
 こりゃ、ちょっとまずいかも……。
 玄関に入るなり、大亮は馨を抱きしめた。
「ここで、すんの?」
 馨が目を見開いて、言った。衣服ごしにその気配を感じたらしい。
「オレはいいけど……鍵ぐらい、閉めたら」
 そうだった。大亮は苦笑して、玄関の鍵をかけた。こんなことだから、ジジイに馬鹿にされるんだよな。そっと、体をはなす。
「……しないの?」
 緑がかった茶色の瞳が向けられる。
「ああ、まあ……風呂に入ってから、な」
 冷えた体を温めて、ワインでも飲んで、それから。
「じゃ、お風呂にお湯、入れてくる」
 すたすたと奥に入る。そのほっそりとした後ろ姿から目を逸らし、大亮は自分の熱をなんとか鎮めた。


   FIN.



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