宵闇猫   by 近衛 遼




第九話  目覚める猫

 ポケットの中に鍵束を納め、大亮は奥に入った。
 たしか、リビングで寝てるって言ってたよな。先刻の若頭の言葉を思い出しつつ、進む。
 その部屋は広かった。天井も高い。シャンデリアの下には、これだけで安いマンションなら買えるんじゃないかと思えるほど豪華な椅子やテーブルが並んでいた。そのひとつの、ゆったりとしたソファーに馨はいた。霞洲翁の初版本を抱きしめて、眠っている。
 大亮はソファーに近づいた。そろそろと手を伸ばす。
「馨。……馨?」
 肩に手を置き、ゆすってみた。
「ん……」
 ぴくりと反応があった。目蓋がそろそろと開かれる。日の光を吸った緑がかった瞳が現れた。
「馨……」
 声が震えているのが自分でもわかった。
「ど……して……」
 信じられないといった顔で、馨が言った。
「なんで……あんたが……」
「探した」
 端的に言った。厳密に言えば、「探してもらった」のだが。
「探したんだ。どうしても、会いたくて」
「なんでだよ!」
 馨は叫んだ。
「あんた、もうオレなんか要らないだろ。だれとでも寝るようなやつ、反吐が出るんだろ。それとも、使い勝手がいいから側に置いとこうって思ったの? いつでも、好きなときにヤれるからって……」
 考えるより先に、手が出ていた。鋭い音が高い天井に響く。馨は床に突っ伏した。
「あ……」
 自分のしたことに、呆然とする。
「……すれば?」
 切れた唇に血がにじむ。それをぬぐうこともせず、馨は言った。
「やりたいだけ、やればいい。どんなプレイにすんの。この流れだとSMかな。調教プレイもいいね。『許してください、ご主人さま』とか言えばいいんだろ」
「馬鹿野郎!」
 喉元を掴んで、引き上げる。
「どうして、おまえは……」
 そんな言い方をするんだ。疑ったのは自分。おまえは、なにひとつ悪くないのに。
 あのあと、リビングのゴミ箱から冊子小包の袋を見つけた。篁は、馨が霞洲翁の初版本に執心していると知って、どこかで見つけたその本を郵送したのだ。
『先日はありがとう』
 たった一行の付箋とともに。
「寝て……ないだろ」
 大亮は馨を抱きしめた。
「……すまん」
 やっとのことで、その言葉を口にした。喉の奥が苦しい。でも、ちゃんと伝えなければ。
「悪かった」
 心の底から、言う。直後、馨の体ががたがたと震え出した。
「馨?」
 腕をゆるめて覗き込む。緑がかった瞳に、いまにも溢れんばかりの涙が浮かんでいた。
 ほろり。
 雫が落ちる。そのあとは。
 もう止まらなかった。


 馨は泣いた。泣いて、泣いて。
 すべてを流し尽くしたあと、ようやく自身のことを語り始めた。
 父親はギャンブルに明け暮れていて、母親はそんな父親に見切りをつけて夜の仕事に出て、そこで質の悪い男に引っかかってしまった。結果、両親ともに借金を背負って、にっちもさっちもいかなくなって、自分たちの子供を売った。
 もちろん、違法行為だ。しかし、札束を目の前に積まれては否とは言えない。言う気もなかっただろう。彼らは親としてはもちろん、人間としても最低の部類であったから。
 馨は働いた。男相手の仕事に抵抗はあったが、ある程度テクニックを覚えてからは、それほどつらいとは思わなかった。中にはけっこうな額のチップをくれる客もいたし、最終的な行為をしなくても代金を払ってくれる客もいた。そこそこ馴染みが付いたころ、馨は五月組の先代に出会った。
『どういうこっちゃ、これは』
 馨を見て、先代は言った。
『この店、ずいぶん阿漕なことしとるんやなあ。こんなことがバレたら、サツからも組からも目ぇ付けられるんとちゃうか』
 そのとき、じつは馨はまだ十八になっていなかった。いわゆる風俗店で働ける年ではない。もっとも、年齢をごまかして働いている者はごまんといたし、それをことさら言い立てる者も少なかったのだが、先代は違った。
『こんなこと続けとったら、ロクなことないで。さっさと周囲きれいにして、まっとうな商売せんとな』
 店のオーナーは、なんとか先代に取り入ろうとかなりの金額を包んで渡した。それを見た先代は、
『阿呆。カネで目ぇつむれ言うんか。わしゃ、こんなもん要らん。どうせやったら、ここにおる子ら、みーんな貰うていくわ』
 オーナーは慌てた。それはそうだろう。そんなことになったら、明日から商売ができない。先代は言った。
『ほんなら、若い子だけでええ』
 オーナーはほくそ笑んだ。結局はそういうことか。少年を「お持ち帰り」したかったのだと。
 先代はそのとき店にいた少年たちを連れて帰った。当初、馨もオーナーと同じことを考えていたという。複数に奉仕させる趣味のある男か、あるいは乱交でもさせられるのかと。
「けど、違った」
 馨は言った。
『帰るとこのあるモンは、早よ帰れ』
 滞在していた高級ホテルの一室で、先代は言った。
『借金があるんやったら、わしが払うといたる。その代わり、二度とあんな商売せんで済むように、しっかり勉強せえ。もし、また同じような店でおまえらを見かけたら、借金のカタに外国へ売り飛ばしたる』
 その言葉に、何人かが誓約書を書いて家に戻っていった。残ったのは、馨ともうひとりの少年だ。
 その少年は、自分が戻れば家族に迷惑がかかると言った。
『借金は、ちゃんとお返しします。組長さんのところで働かせてください』
 必死になって、少年は言った。先代は頷いて、若頭を呼んだ。
『こいつ、おまえに預けるわ。根性あると思うし、仕込んでやってくれや』
 そして、馨が残った。
『どうすんねん、ぼうず』
 訊かれて、馨は答えた。帰るところなどない。帰りたいとも思わない。いつ死んでもかまわない、と。
 先代はしばらく馨を見つめていた。
『そうか。ほんならおまえ、わしのモンになれや』
 こうして、馨はこの別荘に連れてこられた。
「それで……その、おまえは……」
「うん。何回か、そういうこともあった」
 馨は認めた。先代は周囲に馨を自分の手付きだと公言し、別荘に囲った。が、実際に交渉があったのは、最初のひと月ほどだったという。
『ぼうず、ちっとは勉強せなあかんで』
 先代はそう言って、いろいろな本や教材を持ち込んできた。
『いつまでも、こんなことばっかりやってるわけにもいかんやろ。手に職つけるか、資格取るかせなあかん。体だけで稼げるほど、世の中甘うない』
 中学もまともに行っていなかった馨に、先代は何人かの家庭教師を付けた。平日はびっしり授業。週末には先代が来て泊まっていく。そんな日々が約一年続いた。そして、あの飛行機事故が起きた。
 馨の生活は一変した。若頭は馨を組に残すよう提言したらしいが、先代の正妻はそれに反対し、金を渡して追い出せと命じた。
「金なんか、いらなかったけどね」
 馨は言った。
「断って、あいつらに殺されるのはイヤだったから」
 死ぬんなら、自分で。
 そう思ったのかもしれない。そして馨はその金を川にばらまき、数日後、あの高架橋の上に立った。
「やっぱり……死ぬ気だったんだな」
「うん」
「なんで、俺についてきたんだ?」
「なんでかな。よくわかんない」
 そのときのことを思い出すように、馨は視線を上に向けた。
「あんたがオレのこと、呼んだから……かな」
 終わりにしようと思ったとき、呼ばれた。振り向いたら、こっちを見ている瞳があった。でもそれは、なんの希望もない瞳だった。
「ふつうさ、橋から飛び降りようとしてるヤツ見たら、必死になるとか焦るとかするじゃん。それが、あんたときたら、まるっきり緊張感ないんだもん」
 緊張はしていた。ただ、これまでの経験からダメなものはダメだとわかっていただけで。
「いいかな、って思ったんだ。もうちょっと、生きてみてもいいかなって」
「そうか……」
 大亮はふと、ソファーの下に目をやった。空の薬瓶が転がっている。中身はなにかわからないが、もしかしてこれを全部飲んだのか?
「馨、これは……」
 大亮が訊くと、馨はくすくすと笑った。
「おじさんの薬だよ」
「おじさん?」
「組長の……先代の精神安定剤。もっと残ってると思ってたのに、六錠しかないんだもん。これじゃ、死ぬに死ねないよね。猟銃だって、どっかいっちゃってるしさ」
 馨は瓶を拾った。
「きっと、まだ死ぬなってことなんだろうね」
 言いながら、瓶をテーブルに置く。
「これから、どうするつもりだったんだ」
「さあね。目が覚めてから、考えようと思ってた。そしたら……あんたが来た」
 薄い色の双眸が向けられる。大亮はそっと馨の肩を抱いた。
「帰ろう」
 ひっそりと、言う。
「帰るんだ」
 一緒に。
 大亮の言葉に、馨はしっかりと頷いた。

FIN.