| 宵闇猫 by 近衛 遼 第十話 安らぐ猫 ポケットから鍵を取り出す。大亮は玄関のドアを開けた。ふたりで、部屋に入る。 「腹、減ってるだろ。なんか作ろうか」 冷蔵庫の中を見ながら言うと、 「お粥」 ぼそりと、馨は言った。 「お粥が食べたい」 「粥?」 大亮は首をかしげた。そりゃまあ、米はあるし、できないことはないが。 「いいけど、それだけでいいのかよ」 「うん」 馨はリビングのソファーに腰を下ろした。トートバッグを足元に置く。中には霞洲翁の初版本が入っていた。 その本は、五月組の先代が馨に与えたものだった。先代と霞洲翁は幼馴染みで、その作品に対しても思い入れがあったらしい。 『わし、こいつの話、好きやねん。おまえも読んでみい』 先代が亡くなったあと、それらの本や馨が使っていた家具や私物などは、正妻によってすべて処分された。古書店に売られた本を偶然にも大亮が買い、ふたたび馨の手元に戻ってきた。これはもう、縁としか言い様がない。 『この本、どこで……』 あのときの馨の顔。さぞ驚いたことだろう。そしてきっと、うれしかったに違いない。本の中の落書きというのは、馨がわからない言葉を辞書で調べたときのメモ書きだった。 最初、馨は初版本を別荘に置いてくると言った。本のことで、大亮と気まずい状態になったと思っていたからだ。が、大亮は首を横に振った。 「大事なものなんだろ」 はじめて会った日、大事なものなんかないと言い切った馨が、このうえなく大切にしていた本。それを手放す必要はない。 大亮が粥を作っているあいだ、馨は初版本の四巻を読んでいた。やさしい表情。たしかに、嫉妬を感じないと言えば嘘になるが、相手はもう死んでいるのだ。 「卵、入れるか?」 リビングに向かって、訊く。馨は顔を上げて、 「いらない」 「白粥でいいのかよ」 「うめぼし、ある?」 「あったと思うけど……どうだったかな」 大亮はどちらかといえば洋食党である。粥など、それこそ風邪をひいたときぐらいしか食べない。したがって、梅干しや塩昆布といったものは、ふだんは買わないのだ。 「あー、あったあった。でもこれ、いつのかな」 梅干しは保存食。多少、古くても大丈夫だろう。そう判断して、大亮はそれを小皿に移した。 土鍋からぐつぐつと粥の炊ける音がしている。もうしばらく、とろ火で炊いて、それから火を止めて蒸らせばいい。 「もうちょっとで、できるからな」 なにげなく声をかけると、馨はソファーにもたれたまま、うとうととしていた。コンロの火を消して、リビングに入る。 帰りの車の中でも、ほとんど寝ていた。かなり疲れていたのだろう。なにしろ、昨夜はほとんど眠っていないはずだ。失神と睡眠は別物だから。 「馨……」 一瞬、起こそうかと思ったが、すぐに考えを改めた。このまま寝かせておこう。粥は、また作り直せばいい。 大亮は寝室から毛布を持ってきて、馨に着せかけた。 馨の体が回復するまで、一週間ばかりかかった。もともと、あまり体力のある方ではなかったし、医者に診せることができなかったためだ。 「馨くんの戸籍、なんとかこっちに移しましょうか」 調査費用の支払いに菅原事務所を訪れたとき、篁がそう言った。 「戸籍を移すって……そんなこと、できるんですか」 馨は未成年である。とんでもない人間であるにしても、両親も健在だ。そこから籍を抜いて、単独の戸籍が作れるとはとても思えない。 「んー、まあ、ちょっと時間がかかるでしょうけど、できると思いますよ。養子縁組をすればいいんです。馨くんの両親、じつはふたりともムショに入ってますし、ほかに身寄りはないみたいですからね」 馨をだれかの養子にして、新しい戸籍を作る。両親が承諾すれば、できない話ではない。もっとも、その「承諾」がいちばん厄介かもしれないが。 「そうですねー。自分たちのことは棚に上げて、親の権利だのなんだの、言い出しそうですもん。でも、ま、わが子を売ったことが公になったら、また刑期が伸びるでしょうから、そのへんをつついて同意させるって手もあります。細かいことは、加賀ちゃんに任せたらいいと思いますよ」 「お願いできれば、それに越したことはないんですが……」 頭の中で、預金通帳の残高が見え隠れする。それを察したのか、 「費用の支払いは分割にしてもらうよう、オレから加賀ちゃんに言っときます」 「はあ、それはどうも」 苦笑しつつ答える。そろそろ帰ろうかと席を立ったとき、 「あの、田辺さん。これ……」 事務員の三剣が、一枚の名刺を差し出した。そこには「釈診療所」の文字。 「ウチの調査員が、いつもお世話になってるところなんです。保険証がなかったら全額負担になっちゃいますけど、口は固いんで……」 どうやら、馨のことを心配しているらしい。大亮は名刺を受け取った。 「すみません。いただきます」 いつもお世話になっている、か。だいぶ胡散くさい仕事もしているようだから、一般の病院にかかれないこともあるんだろうな。 そんなことを考えながら、大亮は菅原事務所を出た。 マンションに戻ると、馨はリビングにすわりこんで本を読んでいた。ばらばらと何冊か散らばっている。今日は併読していたらしい。 「帰ったぞ」 「あ、おかえり」 本をソファーに置いて、立ち上がる。 「晩ごはんは?」 「まだだ」 「そう。オレも」 「なんか取るか?」 デリバリーのピザでも頼むかと思っていたら、 「ビーフ……なんとかっての、作ってみた」 「はあ?」 「今日、テレビでやってたんだよ。美味しそうだったから」 「で、そのビーフなんとかってのは、どこだ」 「そこ」 台所を指さす。コンロの上に両手鍋があった。 「これか?」 「うん」 蓋を開けると、煮崩れたビーフシチューといった感じの代物が入っていた。 「これが、その、ビーフなんとかか」 「うん。サワークリーム乗っけて食べるんだって」 やっとわかった。ビーフストロガノフだな。 大亮は納得した。コンロに火を点け、 「皿、用意してくれ」 「わかった」 馨はテーブルに皿とスプーンとコップを並べた。 さて、このビーフストロガノフもどきの味は、どんなものなのか。 まあ、多少不味くてもかまわない。食っちまえば、栄養になるのは同じだからな。 大亮は鍋の中身をかきまぜながら、そう思った。 予想外にまずまずのビーフストロガノフを食べたあと。 大亮は台所を片づけて、寝室に入った。そのあとを、馨が追う。リビングには本が散らばったままになっていたが、どうせまたあした、こいつが読むんだ。そのあたりは気にしないことにした。 「ねえ」 ベッドの中で、馨が言った。手が伸びてくる。 「おまえ……」 大丈夫なのだろうか。買い物に出かけられるぐらいには回復しているが。大亮が逡巡していると、 「……したいんだ」 言いにくそうに、馨。目尻がほんのりと染まっている。 大亮は馨のあごに手をかけた。ゆっくりと唇を重ねる。そのあとは。 ふたりとも、ただ心の赴くままに流れていった。 いまでもまだ、未来を信じることはできない。確実なものなんて、どこにもないと思う。ただ。 いまあるものを、感じることはできる。 この安らかな気持ち。これだけは、まちがいなく自分のものだ。 腕の中で、規則正しい寝息が聞こえる。あどけない顔。 その無防備な寝顔に、大亮はそっと口付けた。 FIN. |