宵闇猫   by 近衛 遼




第五話  囚われ猫

 がさごそとポケットをさぐり、鍵を取り出す。
 あいつ、びっくりするだろうな。なにしろ、いまはまだ午後四時。打ち合わせがひとつキャンセルになって、所長から直帰してもいいと言われたので、そのまま帰ってきた。
「帰ったぞ」
 ドアを開けて、いつも通りに言う。が、返事はなかった。
 へんだな。外に出てるんだろうか。まあ、近くのスーパーや百円ショップなどには、ときどきひとりでも出かけているが。
 そんなことを考えながらリビングに入った大亮の目に、とんでもないものが飛び込んできた。
「お留守中に、お邪魔してます」
 栗色の髪、モスグリーンの瞳、外国の映画俳優のような整った顔立ち。
「あんた……」
 それは先日、駅前の古本屋で出会った男だった。篁冬威。たしか、興信所の調査員とか言っていた。
「な……なんの真似だ。そいつをはなせ!」
 自分のいないあいだに部屋に入り込んでいるだけでも信じられないのに、篁という男は、なんと馨の喉元にバタフライナイフを突きつけていたのだ。しかも、馨は両手を後ろ手に縛られている。
「そうしたいのは山々なんですけど、馨くんをはなしたら、あなたはここから逃げて警察を呼ぶでしょう?」
「あたりまえだ!」
 この状況で、通報しないやつなんかいないぞ。それに、「馨くん」だと? 馴れ馴れしく名前を呼ぶんじゃねえよ。
「あなたがもう少し遅く帰ってきてたら、オレも用事を済ませて引き上げてたんですがねー。いや、なんとも間が悪かったですね」
 用事を済ませて、だと? どんな用事だよ。まさか、馨を……。
「あー、そっちじゃないですよ」
 くすくすと笑って、篁は続けた。
「たしかに、馨くんはとーっても魅力的ですけど、オレには愛する人がいますんで」
「だったら……」
「霞洲翁(かすみ しゅうおう)の初版本がほしいんです」
「霞洲翁?」
 それは、馨が何度も読み返していたハードカバーの本のことだった。たしかにあれはめずらしい品だが、こんな強盗まがいのことまでして手に入れる価値があるとは思えない。もっとも、自分のような素人が知らない、ウラ事情があるのかもしれないが。
「なら、持っていけばいい。だから、そいつをはなせ」
 再度、大亮がそう言うと、
「それが、馨くんが手放すのはイヤだって言うんですよ」
「え……」
「ま、オレもべつに、本そのものがほしいわけじゃないんで、ちょっと貸してくれたらすぐに返すってことで、馨くんとの話はついたんですけどね」
 こいつ、いったいいつからここにいるんだ。そんな込み入った話をしたってことは、少なくとも三十分……いや、もしかしたら、一時間ぐらいはいるかもしれない。
 本当に、無事だったんだろうな。
 大亮は馨の様子を窺った。ふだんから、それほど喜怒哀楽を表わす方ではない。どちらかというと愛想のない、なにを考えているかわからないところがあるが、いまの馨はますます、その傾向が強かった。
 なにかを隠しているのか。それは、いったいなんだ。
 お互いのことを知る必要などないと思ってきたが、いまは無性にこいつのことが知りたい。
「で、その初版本を持ってきてくれって頼んだら、いまは寝室に置いてあるから、取りにいけないって」
 ため息まじりに、篁は言った。
「あなたと一緒でないと、寝室には入らないって言うんですよ。こういっちゃなんですが、非常時だからいいじゃないかと思うんですけど、どうしてもイヤだって。で、オレが取ってくるから、そのあいだ、おとなしくしててもらおうと思いましてね」
 それで、縛ったってか。大亮は篁をにらんだ。
「んー、もちろん、馨くんがオレをうしろから殴ったり、逃げたりするような人じゃないってわかってましたよ。でも、いつなにが起こるがわかりませんしねえ。現に、まだ四時すぎだっていうのに、あなたが帰ってきた。こっちとしちゃ、予定外もいいトコです」
 篁はバタライナイフを構え直した。
「すみませんけど、田辺さん。オレのかわりに本を取ってきてください」
「なんだと?」
「拒否権はありませんよ。馨くんがどうなってもいいんですか」
 にっこりと笑って、
「殺しはしませんが、顔に傷がついたらイヤでしょ?」
 銀の刃が、馨の白い頬に宛てられる。大亮は拳を握り締めた。
「……わかった。待ってろ」
 ずんずんとリビングを横切り、寝室に入る。先夜、馨とともに読んでいたその本を手に、ふたたびリビングに戻った。
「ほら。これだろ」
「ありがとうございます。ソファーの上に置いて、下がってください」
 大亮は言われた通りにした。篁は片手で三巻目の本を取り、
「じゃ、馨くん。裏表紙の下の部分に、修理した跡があるでしょ。そこをめくって、中に入ってるものを出してくれるかな」
 ナイフを持ったまま、篁が命じた。馨は表情ひとつ変えずに、その作業をした。中から出てきたのは、どうやらマイクロチップのようだ。
「ありがとう。馨くんはいい人ですね」
 チップを懐に納めると、篁は馨から手をはなした。
「それじゃ、たしかにお返ししましたよ」
 篁はどん、と、馨の体を突き飛ばした。大亮の腕の中に、馨が飛び込んでくる。その間に篁はひらりと身を翻し、玄関へと走り去った。
「おっ……おい、ちょっと待てっ」
 あわててあとを追ったが、大亮が玄関のドアを開けたときには、もう篁の姿はなかった。足音さえも聞こえない。ちょうど運良くエレベーターが来たのだろうか。
 無人の外廊下を見遣って、大亮は大きく息をついた。


 警察に連絡しようかとも思ったが、馨に怪我はなかったし、盗まれたものもない。あのマイクロチップがどういうものかも、わからない。これでは被害届の出しようがないし、だいいち、馨と自分との関係を詮索されるのも遠慮したい。
 馨は未成年だ。万一、家出届が出されていたら、こっちはうっかりしたら誘拐犯になってしまう。結局、通報はしないことにした。
「いいんじゃないの、それで」
 その夜、ベッドの中で馨は言った。
「あの人、悪い人じゃないみたいだし」
「……あんなやつを庇うのか?」
 おまえを縛って、ナイフを突きつけたようなやつだぞ。
「庇ってないよ。だって、あのナイフ、刃がなかったもん」
「え?」
「本物だったら、ちょっと触れただけで切れてるよ」
 気が動転していて、そんなところまで見ていなかった。それにしても、あんな状況でよく冷静でいられたもんだ。
 こいつは夜の商売をしていた。もしかしたら、そのときにかなり危ない目に遭ったことがあるんだろうか。
 つらつらと考えていると、
「ねえ」
 手が、下の方に伸びてきた。
「そんなこと、もういいじゃん」
 声と指が誘う。
「……そうだな」
 馨によって、じわじわと体が目覚めていく。
 大亮は思考を放棄して、馨を感じることだけに専念した。

FIN.