| 宵闇猫 by 近衛 遼 第四話 竹林の猫 がさごそとポケットをさぐる。あれ、おかしいな。たしかここに入れたはずなのに。 田辺大亮が鍵を探していると、ドアの向こうからガチャリと音がした。 「なにやってんの」 呆れたような声で、蘇我馨は言った。 「鍵なら、上着のポケットに入ってたよ」 「はあ?」 「あんた、今朝、出かける前に上着のボタンが取れたからって、べつのスーツに着替えていっただろ。おかげで、時間ギリギリでさ」 そうだった。あわてて飛び出して、なんとか遅刻しないで済んだのだ。そのとき、鍵をポケットに入れたまま忘れていたのか。 「はい。これ」 リビングで、馨は大亮に鍵を手渡した。脱ぎ捨ててあったスーツは、カーテンレールに引っかけてある。 「ボタン、付けてくれたのか?」 ソーイングセットは、寝室のクローゼットに入れてあったはずだが。 「うん」 自分のいないあいだに、寝室に入ったのか。そう思っていると、テーブルの上に百円ショップで買ってきたらしい針と糸があった。 「すまん。払うよ」 代金を払おうとすると、 「いいよ、こんなの。それより、あした古本屋に連れてってよ」 あしたは休日である。 「わかった。じゃ、メシにするか」 「うん」 馨はこのごろ、ときおり料理を作るようになった。といっても、もっぱらカレーとかシチューとか、材料を切って煮るだけのものだが。 「あいかわらず、ぐちゃぐちゃだな」 材料の切り方や煮込む順番や火加減などがアバウトなので、同じものを作っても毎回味が違う。食べる方は、ほとんどギャンブルだ。ちなみに今日はカレーだった。 「不味かったら、レトルトカレーにしたらいいじゃん」 作ったものに対する愛着はないらしい。このあたり、大亮としては余計な気を遣わなくていいぶん、楽だった。 「そうだな」 ふたりは食卓に着いた。 幸い、その日はとりあえず廃棄処分にしなくてもいいぐらいの味のものができていて、レトルトの袋を開けることなく終わった。そして、翌日。 大亮は昼前まで爆睡していた。というのも、あのあと馨が古本屋に付き合ってもらう「前払い」をしてくれて、しかもそれがけっこうゴージャスな前払いで、今朝はふたりとも寝坊してしまったのだ。 「なんか、メシ作るのもかったるいな」 どうせ出かけるんだし、外で食べよう。いまからだと「モーニング」じゃなくて「ランチ」の時間帯だが。 そんなこんなで、ふたりは駅前のレストランで食事をしてから、例の古本屋へ向かった。 馨はあいかわらず、四、五冊を併読していたが、ときおり例のハードカバーの本に見入っていることがあった。もしかしたら、あの初版本を全巻揃えたいのかもしれない。だから、こうして古本屋に足を運んでいるのかも……。 もっとも、いまではネットで検索すれば、その類の情報も容易に手に入れることができる。が、馨自身がそれを口にしないかぎり、こっちがあれこれ介入するのはどうだろう。 だれにだって、触れられたくない部分はある。見せたくないと思っているものを、暴いてはいけない。 駅前の古本屋は屋号を「竹林堂」という。どちらかというとマニアックな本が多く、常連の中には自分が探している本を主人に伝えておき、入手できたら言い値で買うという者もいた。もちろん、主人はそんな阿漕な真似はしていない。至極まっとうな、だれが見ても常識的な商売をしている。 馨が本棚を見て回っているあいだ、大亮は入り口付近に置かれている古い映画のパンフレットを眺めていた。映画は嫌いじゃない。ロードショーを観にいく時間的余裕も金銭的余裕もなかったので、ほとんどレンタルビデオでしか観たことはないが。 懐かしさを感じながら、ぱらぱらとパンフレットを見ていると、なにやら奥の方から声が聞こえてきた。 「ねえ、いいでしょ? これはオレの感謝の気持ちなんですから」 口説き文句のようなそれに、大亮は声のする方を見遣った。 「ちょっと待ってくださいよ。オレ、べつに怪しい者じゃないですって」 栗色の髪とモスグリーンの瞳。ぱっと見、外国人のようなその男は、じつにきれいで明確な日本語をしゃべっていた。どうやら、馨に向かって話しかけているらしい。 なんだよ、あいつ。こんなところでナンパかよ(しかも男相手に)。 「おい、あんた」 大亮は、男と馨のあいだに割って入った。 「こいつになんか用か」 思い切り眼を飛ばす。 「あ、えーと、あなたは……」 「俺はこいつの……友人だ」 なんとか言葉を搾り出す。友人というには多少語弊があるが、ほかに言い様がなかった。同居して生活の面倒を見ていて、しかも体の関係があるという点では、いわゆる「パトロン」とか「情人」にあたるのかもしれないが、それをここで言うわけにもいかない。 「あ、そうですか。それはそれは、はじめまして。オレ、篁冬威(たかむら とうい)といいます」 篁と名乗った男は、さっと名刺を差し出した。肩書きは『菅原事務所・主任調査員』。 「調査員?」 「ウチ、興信所なんですよ。すっごく小さな事務所ですけど」 調査員という文字を見て、一瞬、馨を探しているのかと邪推したが、だとしたら本人の目の前に現れたりはするまい。大亮はそう判断して、自分も名刺を差し出した。 「へーえ、設計事務所にお勤めなんですか」 「ええ。まだ半人前ですが」 大亮は続けた。 「ところで、こいつがどうかしましたか」 「じつはいま、この人に本を譲ってもらいまして」 「本?」 「ずーっと探してた本だったんです。で、やっと見つけたと思ったら、この人が先に手に取ってしまって……。で、オレ、なんとか譲ってもらえないかとお願いしたら、快く承知してくれて。それで、お礼にお茶でもどうかなーって」 篁は、じつに人懐っこい笑顔を向けた。 「ほんとは、ちょっと一杯、って言いたいとこですけど、見たところ未成年でしょ。だから、お茶をと思ったんですけど……なんなら、ハンバーガーとかフライドチキンとかラーメンでもいいですよ」 「そうですか。でも、こいつはべつに、お礼がほしくて本を譲ったわけじゃないと思いますから」 「それはそうでしょうけど、このままじゃオレの気が済みません」 まじめな顔で、篁は言った。 「あ、そーだ。だったら、ここ、オレが払いますよ。ね、そうしましょうよー。きみ、何冊でも好きなの買ってくださいね」 やはり、なんとなくセリフ回しがナンパである。 もっとも、ここであれこれ言い合っていてもラチが明かない。大亮は篁の申し出を受けることにした。 「馨、本を選んでこい」 「わかった」 それまで黙っていた馨が、すたすたと反対側の本棚へ歩いてゆき、何冊かの本を手に戻ってきた。 「はい、これ」 今度はなんの躊躇もなく、篁にそれを渡す。 「はいはい。これだけでいいの?」 篁が訊くと、馨はこくりと頷いた。 「馨くんて、遠慮深いんですねー」 さっそく名前で呼んでいる。やっぱり、こいつはタラシだ。大亮はむっとして、篁をにらんだ。その視線に気づかなかったのか(あるいは無視したのかもしれない)、篁はさっさとレジへと向かった。支払いを終えて、袋を馨に差し出す。 「はい、どーぞ」 「すみませんでした」 横から、大亮がその袋を取った。 「じゃ、俺たちはこれで」 馨の腕を掴んで店を出る。いまは一刻も早く、この場所から離れたかった。 その夜。 大亮は馨を寝室に誘った。連日ということもあって拒まれるかと思ったが、馨はすんなりついてきた。 肌を重ねる。先夜の名残りを追って、熱情を育てていく。 こいつは、男相手の商売をしていたことがある。きっと、その類の人間にはそれがわかるのだろう。もしかしたら、今日の男も……。 急に、頭に血が上った。目の前にある細い体を、乱暴にかき抱く。 独占欲。 それは、かつて大亮が捨て去ったある種の感情を構成する、重要な一部分であった。 FIN. |