宵闇猫   by 近衛 遼




第三話 人待ち猫

 ポケットから鍵を取り出し、鍵穴に差し込む。ガチャリ。外廊下に音が響く。
 いまは午前五時。夏のこととて、あたりはもう明るいが、マンションの住人の大部分はまだ眠っているだろう。
 疲れた。のろのろとドアノブに手をかけると、中から扉が開けられた。
「おかえり」
 栗色の髪(染めているのではないらしい)の少年が、いつも通りにそう言った。名前は、蘇我馨。この春にひょんなことで知り合い、以来四カ月あまり一緒に暮らしている。
「入らないの?」
 怪訝そうに、見上げる。
「ああ、すまん」
 大亮はあわてて、玄関の中に入った。目の前には、何冊かの本が散らばっている。
「おまえ、こんなところで本を読んでたのか?」
「うん」
 端的な答え。
「うん、って……もしかして、ひと晩中か」
「まあね」
「なんでまた玄関で……」
「十二時ぐらいまではリビングにいたんだけど、あんた、帰ってこないしさ。留守電とかメールとかにも連絡入ってないし」
 どうやら、心配をかけたようだ。
「そりゃ悪かった。ゆうべは電話もメールもできなくてな」
 きのうは散々な一日だった。なにしろ、大亮はとうとう十回目の「第一発見者」になってしまったのだ。最初の「発見」から十三年目にして、十回。しかも今度は、自殺とか突然死ではなく殺人だ。
 打ち合わせに出かけようと事務所を出たところで、目の前に止まった車から降りてきた男が、その車を運転していた男に刺された。刺した男はすぐに逃げたが、現場に居合わせた大亮は警察で事情聴取を受けることになった。
 もちろん、大亮は被害者と面識はない。ふつうならすぐに帰宅できるはずだが、運悪く、被害者が大亮の名刺を持っていたため、知り合いではないかと追求されたのだ。
 かなりしつこく訊かれたが、知らないものは知らないし、名刺などあちこちで配っているから、その一枚がなんらかの理由で被害者に渡ったとしか思えない。
「でもねえ。たまたまあんたの名刺を持ってた人が、あんたの目の前で殺されるなんて、そんな偶然がありますかねえ」
 テレビドラマに出てくるような、ちょっといかつい顔の刑事が下からにらみ上げるようにして言った。疑われているのは不本意だったが、警察は疑うのが商売。これまで九回「第一発見者」になった経験から、それはよくわかっていた。
 結局、被害者は某建築会社から、大亮の勤めている設計事務所を紹介してもらっただけだったということがわかったのは真夜中で、犯人が家族に付き添われて自首してきたのとほぼ同じころだ。それでも警察は、自首してきた男の供述を取るまで大亮の身柄を拘束した。
「いろいろご協力、ありがとうございました」
 やたらと慇懃な態度で取調室を送り出されたときには、空はもう白んできていた。
「ずっと、起きてたのか?」
 台所の椅子に鞄を置いて、訊ねる。
「うん」
 そういえば、こころなしか目が赤い。大亮は馨を抱きしめた。
 こいつが自分を嫌ってはいないことは知っていた。でなければ、四カ月もここにいないだろうし、体の関係を続けることもしないだろう。そしてまた、自分もこいつを好ましく思っている。性欲を満たすためだけの相手としてではなく。
 両親を失ってから、極力他人と関わらないようにしてきた。だれかを家に入れるなんて、考えたこともなかった。それなのに、あのとき。
 なぜ馨を家に連れてきたのか、いまだによくわからない。
「いまから、すんの?」
 抱きしめられたまま、馨が言った。
「そうだな」
 あごを捕えて、口付ける。ふたりはリビングのソファーに倒れ込んだ。口付けを続けながら、体をまさぐる。シャツの下に手を入れようとしたとき。
 大亮の胃が自己主張した。
「……」
 思わず動きが止まる。
「さきに、なんか食べる?」
 大亮の体の下で馨が言った。どうやら、その方がよさそうだ。
「パン、まだ残ってるか?」
「うん。生ハムもね」
 きのうの朝と同じメニューになりそうだが、まあいいだろう。
 大亮は台所に立って、オープンサンドを作り始めた。馨はテーブルに皿とマグカップを並べている。
「スープを頼む」
「わかった」
 さらにスープカップも並べ、そこにインスタントのスープを入れる。
「できたよ」
「こっちもオーケーだ」
 大亮は生ハムとクレソンのオープンサンドを皿に乗せた。次いでマグカップにコーヒーを注ぐ。
 こうして、いつもより少し早めの朝食が始まった。


 一時間後。ふたりは寝室にいた。
 事務所には、今日は休むとメールしてある。きのうのことがあるから、きっと所長も大目に見てくれるだろう。あとで嫌味のひとつぐらいは言われるかもしれないが。
 締め切った部屋の中で、大亮は馨を抱いた。徹夜明けにやることじゃないが、どうしてもいま、抱きたかった。
 体の変化に合わせて、だんだん息が荒くなる。中に入ったときには、すでにギリギリの状態だった。本当はもっとじっくり味わいたいが、馨も体力的にきつそうだ。
 当然だよな。こいつも一睡もしてないんだから。
 馨が大亮に応えようとしている。奥に導き、それを受け止める。
「……っ……あ……ん」
 甘い声が全身を刺激する。もう待てなかった。動きが激しくなる。数瞬ののち、ふたりは己を解放した。


 カーテンの隙間から、ちらちらと朝の光が差し込んでいる。車の音や子供たちの声も聞こえてきた。いつもなら、自分も駅に向かって歩いてる時間だ。
 馨は眠っている。安心しきった表情で。
 その寝顔を間近で見て、大亮ははじめて、馨を愛しいと感じていた。

FIN.