宵闇猫   by 近衛 遼




第二話 文字追う猫

 部屋の前でポケットをさぐり、田辺大亮は鍵を取り出した。例によって息を吸い込み、ガチャリと開ける。
 今日は玄関の電気が点いていた。
「……なにやってんだ、おまえ」
 大亮は廊下に寝転がっている少年に声をかけた。が、答えはない。ぴくりとも動かない。
 まさか。
 大亮はあわてて、少年の側に駆け寄った。肩を掴んで、
「おいっ、しっかりしろ!」
 大声で叫ぶ。と、少年は、ぱちりと目を開けた。
「あ、おかえり」
 途端に、気が抜けた。なんだ。寝てただけかよ。
 大亮は大きく息をついて、その場にすわりこんだ。二年ぶりに「第一発見者」になるかと、肝を冷やした。まったく、心臓に悪い。
 大亮は、なぜか自殺や突然死の現場に居合わせてしまうという、じつにありがたくない星回りに生まれてしまったらしく、この十二年あまりのあいだに十回ちかくも、いわゆる「第一発見者」というものになっていた。
「もうそんな時間?」
 少年はきょろきょろとあたりを見回した。
「うわー、もう外、真っ暗だ」
 人の気も知らないで、のんびりと言う。
 少年の名は、蘇我馨。もしかしたら偽名かもしれないが、それを確かめる術はないし、いまのところ、その必要もない。
「おまえ、なんでこんなところで寝てたんだ」
「え、だって、こっちの方が涼しいんだもん。本読んでたら眠くなって、ちょっと昼寝しようと思って……」
「暑かったら、エアコンつけりゃいいだろ」
「リビングのエアコン、壊れたみたいだよ」
「はあ?」
「なんかヘンな音がして、止まっちゃった」
「冗談だろ。買ってからまだ一年ほどだぞ」
「そんなこと言ったって、止まっちゃったモンは仕方ないじゃん。修理するか買い替えるかしたら?」
「……そうだな」
 まだギリギリ保証期間内かもしれない。あとで保証書を調べてみようと思いながら、大亮はリビングに入った。床に、何冊かの本が散らばっている。
「今日は、なに読んだんだ?」
「んーと、『ビルマの竪琴』と『源氏物語』と『そして誰もいなくなった』と『チャタレイ夫人の恋人』と『泣いた赤鬼』」
 見事に一貫性のないラインナップだ。
 馨はひとつの物語を続けて読むことができないらしく、たいてい四、五冊を併読している。そんなことをして内容が頭に入るのかと思うが、あとから感想などを訊いてみると、そこそこ的を得たことを言っているので、それなりにちゃんと理解しているのだろう。
 馨はどうやら、中学までしか出ていないようだったが、知識欲は豊富で、大亮のところに来てから二カ月たらずのあいだに、家にあった本をすべて読み尽くしてしまった。以後、大亮は古本屋で様々な本を買ってきて、馨に与えている。
 前述の通り、馨は本であればジャンルは問わなかった。本人いわく、文字を追うのが面白いのだそうだ。
「そうか。じゃ、これ」
 じつは今日も、仕事帰りに古本屋へ寄ってきた。がさりと袋を渡す。
「ありがと。支払い、しなくちゃね」
 袋をソファーに投げると、馨は大亮の首に腕を回して引き寄せた。深い口付けが交わされる。
「……おまえ、晩飯は?」
 ほんの少し唇をはなして、訊く。
「あとでいいよ」
 ふたたび、唇が重なる。
「あ、でも、あんたが先に食べたいんだったら……」
 窺うような瞳が向けられる。
「いや。俺も、あとでいい」
 そう言って、大亮は馨を抱き上げた。


 幸いなことに、寝室のエアコンは壊れていなかった。だったらなにも廊下なんかで寝なくても、ここで昼寝をすればいいのにと思うだろうが、馨は大亮と一緒のとき以外は寝室に足を踏み入れなかった。
 寝室は大亮のプライベートスペースであって、自分ひとりのときに入ってはいけないと考えているらしい。このあたり、なんとも律儀である。
 馨の「支払い」は、当然ながら古本十二冊ぶんにはもったいないぐらいのものだった。余韻の残る体をはなし、シャワーを浴びるころには、もうすっかり夜も更けていた。
 さすがに腹が減ったな。冷凍のピラフと缶詰のスープでも温めるか。そんなことを考えながら浴室から出てくると、馨がソファーの前にすわりこんでいた。
「どうした? おまえもシャワー、浴びてこいよ」
 声をかけると、馨はびくりと顔を上げた。
「これ……」
 こころなしか、声が震えている。
「ん? なんだ?」
「この本、どこで……」
 馨の手には、大判のハードカバーの本が握られていた。
「ああ、それか。駅前の古本屋で見つけたんだ。その作家の初版本なんて、めったに見られるもんじゃないからな。全巻そろってて、もっと保存状態がよかったら何万もするらしいんだが、中に落書きがあるし、二巻しかなかったから、特別に安くしてもらったんだよ」
 じつはちょっと迷ったのだが、思い切って買ってしまった。
「そう。駅前の、古本屋で……」
 馨は大亮の言葉を繰り返した。
「それが、どうかしたのか?」
 いつもと違う様子が気になり、訊いてみた。馨ははっとして、かぶりを振った。
「え、べつに、なんでもないよ」
 本をソファーに置いて、立ち上がる。
「ねえ」
 甘い声とともに、馨が大亮に身を預けてきた。
「おい、馨……」
 どういうつもりだ。「支払い」なら、さっき十分すぎるほどしてもらったぞ。……と思ったが、体とは正直なものである。さっき感じていた空腹が、どこかに飛んでいってしまったのだから。
 わずかに緑がかった茶色の目が大亮を捕えた。誘われるままに、ふたたび寝室へと向かう。
 リビングの明かりが、小さな音とともに消えた。


 結局、ふたりとも夕飯を摂らずに眠ってしまい、翌朝は近くのファミレスでモーニングを食べた。その店は朝もバイキングをやっていて、独り暮しの学生やサラリーマンでいつも繁盛していた。
 馨は大亮と出会った当初、あまり外には出たがらなかったが、このごろはこうして外食をしたり、日常の買い物ぐらいなら出られるようになった。もっとも、自分が仕事に行っているあいだのことはわからないので、ひとりでどこかへ出かけているのかもしれないが。
 そのあたりのことも大亮は詮索しなかった。一応、ある程度の金は渡してある。それをどう使うかはこいつの自由だ。自分があれこれ指図することじゃない。
「ねえ」
 ほうれん草入りのオムレツを食べながら、馨が言った。
「なんだ?」
「今度、駅前の古本屋に連れてってよ」
「いいけど、場所、知ってるだろ? あとで行ってきたらどうだ」
「……あんたと……行きたいんだよ」
 微妙な、間。
 なるほど。ひとりでは行きたくないわけか。どんな理由があるのかは知らないが。
 いずれにせよ、それも自分が介入する問題じゃない。大亮はそう結論づけて、
「じゃ、次の休みんときに連れてってやるよ」
「ありがと」
 馨はほっとしたような顔をして、オムレツを口に運んだ。


 次の休日。
 エアコンの修理が終わったあと(なんとかタダで直してもらった)、大亮は馨とともに駅前の古本屋に出かけた。馨はなにやら真剣な顔であちこち見て回っていたが、いまだ分類されていない搬入されたばかりのカートの中に、先日、大亮が二巻だけ買ってきた初版本の三巻目を見つけた。無言のまま、レジに運ぶ。
 やっぱり、あの本になにか思い入れがあったんだな。
 大亮は知っていた。乱読に近い読み方をする馨が、この数日、あの本ばかりを読んでいることを。
 馨は速読だ。いかにハードカバーの二段組の本とはいえ、すでに読み終えているはずなのに、それを何度も読み返しているのだ。
「なんか、買ったのか?」
 さりげなく訊くと、「うん」と短い返事が帰ってきた。
「じゃ、メシ食いに行くか」
 大亮の言葉に、馨はふたたび「うん」と答えた。


 その夜。馨は大亮を誘った。なにかを忘れたいのかもしれない。あるいは、なにかを思い出してしまったのかも。
 いずれにしても、心がえぐられるのには変わりない。
 馨が流す血を吸い取り、いまを終わらせる。それが、大亮にできる唯一のことだった。

FIN.