宵闇猫   by 近衛 遼




第一話 眠り猫

 部屋の前でポケットをさぐり、鍵を取り出す。ガチャリ。ドアを開ける瞬間、田辺大亮(たなべ だいすけ)はいつものように下腹に力を入れた。
「帰ったぞ」
 できるだけなにげなく言って、中に入る。電気はついていない。テレビの音もしない。ただ、バスルームからシャワーの流れる水音。
 やりやがったか。大亮は舌打ちした。畜生。また「第一発見者」かよ。靴を履いたまま、浴室に飛び込む。
 そこには真っ赤に染まったバスタブが………なかった。
「へっ?」
 思わず素っ頓狂な声が出た。
「なに?」
 バスタブの中にすわりこんで、頭から冷水を浴びていた少年が面倒くさそうに顔を上げた。
「なにって、おまえ……」
「今日はそういうプレイにすんの?」
「阿呆。俺はおまえが……」
 皆までは言えなかった。少年の唇がそれを封じたから。
 まあ、いいか。とりあえず今日も無事だったわけだし。
 すっかり冷え切った少年の体を抱き上げて、大亮は浴室を出た。


 少年の名は、蘇我馨(そが かおる)。本名かどうか定かではないが、偽名にしてはなかなか凝った名前を付けたものだ。
 冷たかった体が熱を帯び、白い頬が上気してきた。湿った髪の匂い。からみつく細い腕。
 こういう関係になって二カ月。最初は「宿代」と「飯代」だった。高架橋の手摺りにすわっていた馨をこの部屋に連れてきたとき。
「オレ、カネ持ってないから」
 そう言って、馨は自分を提供した。
 どうして、見ず知らずの人間を家に入れたのか。どうして男同士で一線を越えてしまったのか。あとから考えると自分でも不可解なことばかりだったが、目の前で死なれるよりはマシだと思ってしまったのかもしれない。
 高架橋から下を眺めていた馨の横顔には、死の誘惑が色濃く見えた。だから……。


 馨は、そういう商売をしていたらしい。本人の言によれば、実の親に売られたという。
「ま、仕方ないじゃない。みーんな、自分がいちばん大事なんだから」
 馨はこともなげに言う。それはそうかもしれない。
「あ、前言撤回」
 くすくすと笑って、
「オレは違うもんね」
 瞳がやけに艶やかになって。
「大事なものなんか、ない」
 あの日、馨はそう言い切った。そうか。なにもないのか。だったら。
 俺でもいいのかと思ってしまった。いままで、だれの役にもたてなかった俺でも。


 はじめて「発見」したのは、両親の遺体だった。中学一年のとき、学校から帰ってきたら、ふたりそろって台所で服毒自殺をしていた。理由は父親の借金。脱サラして始めた商売がうまくいかず、高利な金を借りてしまったのだ。
 ひとり残された大亮は親戚の家を転々としたが、結局どことも馴染めず、ある福祉施設に預けられた。そこで、二度目の「発見」。
 ある朝、トイレに行ったら、個室の中でひとつ年下の少年が首を吊っていた。
 いろいろ事情のある子供たちばかりがいたから、何年かに一度は脱走や自殺騒ぎはあったらしい。施設側の対応はじつに事務的な感じがした。
 そして三度目は、中学卒業後に工務店で住み込みで働いていたとき。
 その店の棟梁が、心臓発作で急逝した。それを最初に見つけたのが大亮だ。
 なんだよ。これ。
 冷たくなった棟梁の顔を見ながら、大亮は思った。
 たった三年あまりのあいだに、三回も「第一発見者」にならなくてもいいじゃないか。どうして、俺の周りでこんなに人が死ぬんだよ。
 それ以来。大亮は人と深く関わってこなかった。アルバイトをしながら建築士の資格を取って、いまの設計事務所に就職してからも。
 それでも、この十年で、何度か同じような場面に遭遇している。一昨年などは、仕事で出かけたアメリカで拳銃自殺を目撃してしまった。現地の警察の事情聴取を受けたため、帰国が二日ばかり遅れて、上司にひどく怒られた。結果、出張費用はこっちが全額負担。まったく、災難以外の何者でもない。
 ここ二年ばかりはなんとか無事に過ごしてきたが、なんとなくそろそろヤバいかもと思っていた矢先に、馨と出会ったのだ。
 季節は春。時は夜。淡く色づいた桜が宵闇に浮かび、ちらほらと花弁が散っている。これでもかってぐらい、ありがちなシチュエーション。
 ダメ元で声をかけた。馨はついてきた。そして、いまに至っている。
 喘ぎが熱を誘う。体の芯が疼く。
 大亮は馨の中に入った。深く熱い渦が大亮を捕える。目眩すら覚えるほどのそれに、大亮は飲み込まれていった。


 くうくうと、かすかな寝息。昔、飼っていた猫によく似ている。寝息だけでなく、栗毛と挑戦的な目も。もっとも、いまはその目は閉じられているが。
 俺はこいつの過去を知らない。こいつも俺の過去を知らない。知る必要もないだろう。現在だけが、こいつと俺との共通項。
 その「現在」というやつが、いつまで続くかわからない。明日にはもう、ないかもしれない。でも、だからなんだと言うんだ。
 いままでだって、明日なんかなかった。確実なものなんて、なにひとつなかった。
 神様はどこまでも残酷だ。でも当然かもしれない。
 なぜなら、神なんてモノは、人間が造ったんだから。
 人工の世界で、人工の夢の中で、ありえない未来を信じて絶望するよりも、現実だけを積み重ねて過去に綴じていく方がましだ。

 大亮はこうして、その日を過去に仕舞い込み、やっと眠りにつくことができたのだった。


 FIN.