水鏡映天  
by近衛 遼





エピローグ

 御影宿舎のある山間部は、都にくらべて気温が低い。山桜の蕾はまだ固く、吹く風も冷たかった。
 あれから、三年か。
 桐野篝は北門を眺めつつ、そう思った。
 あのとき与儀が壊した北門はすっかり新しくなっていた。物見矢倉も以前よりも高く作られており、警備の者も左右それぞれ五人ずつ配置されているらしい。
「何用か」
 さっそく、物見台から誰何された。
「八代さまより『水鏡』を拝命いたしました、桐野篝と申します。開門を」
「確認する。しばし待て」
 門衛が決まり通りにそう言って下がろうとしたところに、なにやら甲高い声がした。
「さっさと開けてやってよー。でなきゃ吹っ飛ばしちゃうよ」
 この声は、まさか……。
 篝ははっとして目をこらした。門衛があわてて横に控える。ひょいとうしろから顔を出したのは、見紛うことなく、あの男だった。
 銀の髪と金の眼。記憶にあるのと同じ表情で、大きく手を振っている。
「ちょっと待っててねー。いま開けるから」
 ゆっくりと、門が開いた。銀髪がひらりと宙に舞う。
「ずいぶん、遅かったねえ」
 鬱金色の目を細めて、与儀は言った。
「待ちくたびれたよ」
「申し訳ありません。いろいろと、処理しなければならないことがありまして」
 「手」を辞めるにあたっては、本当に大変だった。なにか失態を犯したのでもないかぎり、辞任はできないのが原則だ。それを曲げてまでとなると上層部の反対も強く、一時は謀叛の疑いありやと、かなり厳しく調べられた。
 幸い、御門が比較的早い時期に篝からの上奏に「諾」の意向を示していたため、その疑いはすぐに晴れたが。
「石の上にも三年っていうけどさあ。ほんとに三年たっちゃったね」
 残務処理と手続きだけなら、一年あまりで終わった。問題は、それからだった。
 いざ「水鏡」を拝命する段になって、御門は篝に「手」の後任を育てるよう命じたのだ。
 それを為したあとならば、いつでも都を出ていい。言い換えれば、後継者が定まらぬうちは都を出てはならぬということだ。
 結局。諜報局の中から素質のありそうな者を選び、「手」として独り立ちさせるまでに、さらに二年かかってしまった。
「三年超えたら、ちょっとオレ、危なかったかもー」
「ご冗談を」
 門から宿舎までの道を並んで歩きながら、篝はくすりと笑った。
「『銀狼のヨギ』の噂は、このところまったく聞いてませんよ」
 そうなのだ。あのあと、その二つ名を耳にすることはまったくなかった。他国の間者の中には、「銀狼のヨギ」は死んだと思っている者もいるかもしれない。
 資料によれば、与儀はここ一年あまり、部隊長としてかなり大きな作戦にも参加している。以前は、単独の暗殺任務専門だったこの男が。
「だーって燭が、勝手なことしたら篝に言いつけるって脅すんだもん」
 子供のような口調で、愚痴る。
「オレ、ちゃんとやるって約束したし」
「そうですね」
 本当に、がんばったんだな。この三年間。
「ねえねえ、篝。今度こそ東館に入ってね。オレ、もう燭に頼んであるんだ。篝の部屋は、オレのとなりにしてくれって」
 うきうきとした顔で、与儀は篝を覗き込んだ。
「ね。いいでしょ?」
 金の瞳が問いかける。
「ええ。いいですよ」
 このうえもなく穏やかな笑みとともに、篝は答えた。

 待っていた。
 この男が自分の前に立つ日を。
 待っていた。
 自分がこの男の前に立てる日を。
 そして、いま。

 与儀。
 おまえはここにいる。
 おれは、ここにいる。

 御影と水鏡。二つ身でありながら、一なるものとして。


(了)