「愛のもしも??劇場
-榊剛の場合2-
by近衛 遼


その19 如月水木の挑戦

「えーっ、また納豆〜?」
 その日、卓袱台の前で、如月水木は常の彼からは想像もつかないほど情けない声を上げた。
「もー、いい加減にしてよ〜。おにーさんてば、オレが納豆、大・大・だーーーいっきらいなコト知ってるくせにー」
 目がマジである。
「それに千秋ちゃんっ。納豆かき混ぜんのやめてよね。見てるだけで気分悪くなるんだから」
「んなこと言われてもなあ。納豆ってのは混ぜて食べるもんだ」
 かしゃかしゃとリズミカルに箸を動かしながら、元御影の老人は言った。
「混ぜれば混ぜるほど旨味と栄養が増して、さらに有効成分が……」
「有効だろーが無効だろーが、とにかく、あっち向いて食べてよね」
「おい、水木。言いすぎだぞ」
 横から口をはさんだのは、古参御影の榊剛だ。かれらはいま、東町通りの家で夕餉を摂ろうとしているところだった。
「好き嫌いはだれにだってあるが、他人の嗜好に干渉するな」
「なによー。剛だって納豆苦手なくせに」
 たしかに、そうだ。が、長年、食べ物の選り好みのできるような暮らしをしてこなかったため(うっかり文句でも言おうものなら母親の拳骨が脳天に炸裂するのだ)、口に合わないものであっても残すことはしなかった。中には生理的に受け付けないものもあったが。
 納豆もそのひとつで、匂いといい独特の粘り気といい食感といい、どれもこれも苦手だった。学び舎に入ってからは家を出て寮で暮らし、御影となってからは宿舎で寝起きしているので、毎日の納豆攻めからは解放されていたのだが、このところ、東町通りの家に来るたびに食卓に納豆が並ぶようになった。
 ここは、剛が馴染みの色子を囲うために借りた家である。まっとうに考えると、自分はこの家のあるじであり、下にも置かない扱いを受けて当然なのだが、この数ヶ月はやたらと珍客が多く(といっても限定二名だが)、剛は情人である元色子の咲夜とふたりきりの時間を持つことが難しくなっていた。そこにさらに追い討ちをかけたのが、先日御影本部で行なわれた定期健診だ。
 御影本部に勤める者は「御影」や「水鏡」のならず、事務職に就いている者まで年に一度の健康診断が義務付けられている。東館クラスのベテランで、危険率の高い任務を扱う者たちの中には、それ以外に御影研究所で検診を受ける者もいた。
 余計なことを言わなきゃよかったな。
 しみじみと剛は思った。でなきゃ、こんな精進料理みたいなものばかり出されることもなかったのに。
 卓袱台の上には、納豆をはじめ豆の煮物や高野豆腐、生湯葉の刺身、芋やかぼちゃやししとうの天ぷら、青菜のごまあえなどが並んでいる。当然ながら肉の「に」の字もなく、かろうじて魚気が見てとれるのは湯豆腐の中に入っている鱈だけだ。というのも、剛の血圧とコレステロール値が少々高かったため、御影研究所で再検査をすることになったからだ。
「あと少しですから、みなさまも辛抱してくださいましね」
 茶碗と吸い物椀を運んできた咲夜が、一同を見回して言った。再検査は明日である。
「剛さんだけ、べつの献立というわけにはまいりませんから」
「それはそーだけど、毎回毎回、納豆出さなくてもいいじゃんかー。オレ、これ見ただけで食欲なくなるのよ」
「納豆は体にいいんですよ。この機会に、少しは召し上がればよろしいのに」
「でもさー」
「ご存じとは思いますが、納豆には肌を美しくする働きがあるんです。それに、体の中の油を燃やす効果もあって、花街の者たちは皆、ひんぱんに食しておりました」
「え、ホント?」
 美肌と脂肪燃焼に効くと聞いて、水木はずいっと身を乗り出した。
「ええ、本当ですとも」
 玄米粥の入った茶碗を配りながら、咲夜。
「だったら、ちょっとだけ食べてみよっかなー」
「……マジかよ」
 剛は耳を疑った。いつぞや敵地で尋問された折の話になったとき、「もし納豆なんか食わされてたら、あることないことぜーんぶしゃべってたかも」と言っていた水木が、おそるおそるではあるが、納豆の入った小鉢を覗き込んでいる。
 それには大根おろしが混ぜてあり、トッピングに干し海老と大葉、さらにポン酢がかかっているようだった。大根おろしで粘り気を取り、干し海老や大葉で匂いをごまかそうという配慮らしい。
 そんなこんなで、夕餉の席はこの面子が揃っているにしては、やたらと静かに始まったのだった。


 結局。
「これ、ホントに納豆?」
 水木は、咲夜の作った納豆のみぞれ和えを完食することができた。
「おにーさんて、やっぱりすごいねーっ。オレ、惚れ直しちゃったよん」
 至極ご機嫌になった水木は食後、土岐津とともに賭場へと繰り出し、剛は咲夜の制止も聞かず、久しぶりに甘い時間を満喫した。そして、翌日。

 古参御影、榊剛。再検査の結果は、「要精査(精密検査)」だったという。

 おしまい。