愛?の煎餅 by近衛 遼 ACT1 バリボリバリボリバリボリ………。 明るい陽の差し込む茶の間に、やけにリキの入った咀嚼音が流れる。 ゴクゴクゴク……。 さらには、一気飲みの嚥下音。 ゴトン。卓袱台に湯呑みを置く音のあと、トポトポトポと急須に湯を注ぎ足す音がした。 さすがに四煎目のほうじ茶は薄い。ほとんど色がついているだけといった感じだが、いまの桐野藍にはそんなことを気にするまっとうな神経は残っていなかった。 まったく、なんだってこう次々と買ってくるんだ。 藍はあらためて、目の前の菓子鉢に積まれた煎餅を睨み付けた。 毎度おなじみ「一文字屋」の固焼き煎餅。食べ歩き雑誌「こだわりウォーカー」の常連組で、売り切れ御免の行列のできる店となって久しいその店の、今期の新作らしい。 「この柚子味噌せんべいの柚子はね、一個一個、桐の箱に入って売ってるよーな特選素材なんですよ〜」 先刻、大判の煎餅を菓子鉢に盛って講釈を垂れたのは、上司であり同居人(断じて「同棲」ではないぞ)でもある社銀生だ。 「きっと、この世のものとは思えないほど美味しいと思いますよー。ささ、藍さんもおひとつどーぞ」 ほくほく顔でそう言う銀生を、藍は黙殺した。手間隙かけて育てられた最高級の柚子と、前栽の隅に無造作に植わってる柚子の違いがこの男にわかるはずがない。なにしろ、「豆の屋」のきぬこし豆腐に真っ茶色になるほど醤油をかけて食べる男である。味覚が正常に機能しているとは、とても思えない。 案の定、新製品をひと口食べた銀生は、首を四十五度傾けて微妙な顔をした。 「う〜ん、まあ、フツーですねえ」 ぽい、と食べかけの煎餅を卓袱台に投げる。 「いつもの醤油せんべいにしとけばよかったなー」 ぼそりと呟き、 「藍さん、俺、ちょっと出かけてきます」 「どこへです」 「もちろん『一文字屋』でーす」 「……これはどうするんですか」 目の前に置かれた煎餅を指差して訊くと、 「え、ああ、それ? 俺は要りませんから、てきとーに処分しといてください。じゃ、いってきまーす」 ぴらぴらと手を振って、出ていく。 処分だと? いま買ってきたばかりだぞ。それをちょっとかじっただけで「要らない」とは、いったいどういう了見だ。食べものを粗末にするなど、人間として最低だ。 これまでにも似たようなことは多々あって、藍はそのたびに懇々と道理を説いているのだが、一向に改善の兆しは見えない。 元来、銀生は新しいもの好きでめずらしいもの好きな性格で、新製品と聞くと買わずにはいられないらしい。つい最近の一例としては、商店街の一角にオープンした自然食品の店で売られていた「血液サラサラ・青汁おからクッキー」を十箱もまとめ買いしてきて、「これを食べると血管年齢が十歳若返って、あっちもこっちも元気ハツラツになるんですよ〜」とウキウキしながらまくしたてていたくせに自分は一枚しか食べず、あとは即日ゴミ箱行きになってしまった。 たしかに、それは御世辞にも旨いと言える代物ではなかった。が、幼いころから食べものは大切にするよう教育されてきた藍である。そのまま廃棄するのはどうも忍びなくて、未開封の九箱を回収して自分で食べることにしたのだった。 薬代わりだと思えば、味のよしあしなど関係ない。箱の大仰な効能書きは眉唾ものだとしても、青汁とおからが体にいいのは間違いあるまい。 「藍さ〜ん、ムリしなくていいですよー」 名称から想像できる通りの味のそのクッキーを黙々と食する藍に、銀生はあれやこれやとゴマをすったが、結局、藍は九箱を二十日ほどで完食した。 あれにくらべて煎餅というのは、いささか塩分過多で栄養素の偏りもあるが、このまま捨てるのはやはり納得できない。というわけで。 冒頭の仕儀と相成る。 バリボリバリボリバリボリ………。 柚子味噌せんべい、七枚目である。結局ひと袋食べてしまった。完全にヤケ食いである。 舌と上顎がヒリヒリしてきた。藍は台所でお茶の葉を替え、卓袱台に運んだ。新しい茶をゆっくりと口に運ぶ。それはじんわりと胃の腑を満たした。 さて、一息ついたところで今月の生活費の統計でもやるか。藍は茶箪笥の引き出しから出納帳を取り出し、ぱらぱらとページをめくった。 今月は残業も少なかったし、特務三課「本来」の仕事もなかった。従って、基本給以外はほとんどナシ。積み立て分を天引きすると、予算ギリギリといったところだ。本当はいま少し余裕があるはずだったのだが、銀生が食事当番のときに邪魔臭がって出来合いのものを買ったり外食したりしたため、こうなってしまった。 来月は、碧が来たとき以外は外食などさせないぞ。 『藍にーちゃん、おれ、でっかいエビ天が食べたいっ』 かわいい義弟がそう言うなら、てんぷらだろうがウナギだろうが寿司だろうが、なんでも食べさせてやるが。 明らかに無駄遣いと思われる項目を赤ペンでチェックしながら、来月の予算をたてていく。おおよその配分が決まったころ、玄関の戸がカラカラと開く音が聞こえた。どうやら銀生が戻ってきたらしい。 「だたいま帰りました〜」 弾むような声。藍は出納帳を閉じて、戸口を見遣った。からりと障子が開いた直後。 「じゃじゃじゃじゃーーーーんっ。見てください、藍さんっ。このフルラインナップ!」 「なっ……な、なんですかっ!!」 大きなダンボールを前に、思わず声がひっくり返る。 「なにって、すごいでしょー。『一文字屋』の通販限定『得々せんべいセット』、特別に分けてもらってきました。レギュラー品の詰め合わせに『一文字屋』オリジナルの取り皿がおまけに付いてくるんですよ〜。ほらほら、藍さん。カワイイでしょ?」 ピンクと水色の小皿を手に盛り上がっている銀生を見て、藍はふるふると拳を握り締めた。 「社課長」 低く、役職名を呼ぶ。 「はいはい、なんですか?」 「そんなに大量に購入して、賞味期限までに食べ切れるんですか」 「せんべいは日持ちしますから大丈夫ですよー」 この男の「大丈夫」ほど信用できないものはない。 「そう言って箱買いして、押入に入れたまま忘れてしまってネズミに食い散らかされたのは、どこのどなたです」 「あー、あれは奥の方に放り込んじゃったからですよ。今度はそんなことしませんって」 へらへらと笑って、過去の失敗をごまかす。 「そうですか。では、せいぜい頑張ってください」 「えー、藍さんも食べるでしょ? 粗塩せんべいとかザラメせんべいとか、好きだって言ってたじゃないですか」 「けっこうです。柚子味噌せんべいをいただきましたから」 「え、あれ、ぜんぶ食べちゃったんですか? 捨ててくれてもよかったのにー」 「そんなもったいないことができますかっ!」 ぶちり。桐野藍の「怒」センサーがマックスを振り切った。 「食べものには、作った人の魂と作られた場所の神様が宿ってるんですよ。あたら疎かに考えてはいけません! 水の一滴、米の一粒にも感謝の心を忘れずに、食べものは大切に無駄なく消費してください!!」 子供のころ桐野の家に出入りしていた阿闍梨の言葉を思い出しつつ、ぴしりと言い渡す。銀生は煎餅の入ったダンボール箱を手にしたまま、 「わかりましたよー。ちゃんと全部食べますって。も〜、藍さんたら、たかがせんべいひとつで大袈裟なんだから……」 うるさい。こっちだって「たかが」煎餅のことで、ここまでキリキリしたくはない。 なにやら、急に胃のあたりが気持ち悪くなってきた。やはり柚子味噌せんべい七枚は多すぎたのかも。 「あれえ、藍さん。なんか顔色悪いですよ」 やけにやさしい声でそう言って、銀生が近寄ってきた。 「夕飯までまだ間がありますし、ちょっと横になります?」 すっと肩に手が回る。さっきまで後生大事に抱えていた煎餅の箱は、いつのまにか部屋の隅に打ち遣られていた。食べものは大切に扱えと言ったばかりだというのに、もうこの有り様だ。 「俺が看病してあげますよ」 耳元で、銀生が囁いた。 「けっこうです」 なにが「看病」だ。肩の手をぴしゃりと払う。 「いたたっ……もう〜、藍さん、照れなくてもいいのに」 「だれも照れてません」 藍はきっちりと背筋を伸ばし、銀生を見据えた。 「昼間から不穏当な会話は謹んでください」 「愛に時間は関係ありませんって」 「関係あります!」 「じゃあ、夜だったらいいんですね〜」 にんまりと、銀生。「ああ言えばこう言う」の典型だ。藍はおもむろに煎餅の箱を拾い上げ、銀生の眼前に差し出した。 「さっき、全部食べるとおっしゃいましたよね」 「は?」 「おっしゃいましたよね? ちゃんと、全部、食べると」 一語一語、念を入れて訊く。 「えーと、はあ、言いましたけど……それがなにか?」 「どうぞ」 ぐい、と箱を押しつけて、 「責任をもって、これを全部消費してください」 「あ、はいはい。了解しました〜」 返事がよすぎるのが曲ものだ。藍はなおも語を重ねた。 「では、それまで私的交渉はお断りします」 「へっ………」 まさに鳩が豆鉄砲をくらったといった様子で、銀生は目をぱちくりとさせた。 ふん。性懲りもなく常識外れなことをするからだ。しばらくは「得々せんべいセット」と格闘していろ。 煎餅の箱を抱きしめたま固まっている銀生を残し、藍は悠々と座敷を出た。 ACT2へ |