愛?の煎餅 by近衛 遼 ACT2 「……今日はだれかの命日でしたっけ?」 夕刻。卓袱台に所狭しと並べられた精進料理を前に、銀生はちらりと愛しい人を見遣った。藍は表情ひとつ変えずに「いいえ」と答え、唐子の茶碗に粥をよそった。 「うわあ、ごはんまで玄米粥ですか」 げんなりといった顔で、銀生はぼやいた。 「なんか、護国寺の修業僧になったみたいですねえ」 なにを言うか。護国寺の食事は一汁二菜が原則だ。しかもそのうちの一菜は香の物だったりする。 「召し上がらないなら、下げます」 さらりと断言すると、 「えーっ、だれも食べないなんて言ってないですよ。食べます食べます。いただきますって」 銀生はあわてて席に着いた。 夕餉の膳には、生湯葉の刺身に山芋新庄の吸い物、おからの袱紗包みの煮物と野菜の炊き合わせ。さらにはこんにゃくの田楽に厚揚げの茸あんかけ、胡麻豆腐、納豆、オクラのごまあえにキュウリと海藻の酢の物等々。いつもの銀生だったらなおもグチグチと不服を並べそうなメニューなのだが、今日はめずらしく黙々と食べている。 藍はそれを横目で見ながら、自分も箸を運んだ。 なんとなく、面白くない。気合いを入れてこれだけの品数を(それも銀生が苦手なものばかり)作ったのに。 藍自身は、それほど食べものに執着はない。食事は一日に必要な栄養素が補給できればいいのであって、極端な話、任務時に支給される簡易栄養食や携帯食で事足りると思っている。 ただ、一般に社会生活を営む上で食事のマナーや食べものの知識は必要だし、会食の場や酒席で情報を得たり人脈を築いたりすることも重要だ。人間、飲み食いの場では人となりがよく現れる。 もっとよく現れるのは、ごくごくプライベートな行為のときであるが、それは万人向きとは言いがたい。いま現在、藍がその方法を用いて観察および監視しているのは、目の前で胡麻豆腐をつついている人物だけであった。 「そういう食べ方はやめてください。見ていて不快になります」 「だって藍さんたら、俺が胡麻豆腐、超〜キライなの知ってるくせに……」 「共同生活を始める際に取り決めたでしょう。互いに、相手の献立に異議を申し立てない、と」 「はあ、まあ、そりゃそうですけど……」 なおもなにやら言いたそうにしている銀生を無視して、藍は再び卓袱台に視線を戻した。 さっさと食べて、後片づけをしよう。じつは昼間にヤケ食いした柚子味噌せんべいのせいで、口内炎が二つばかりできていて咀嚼しづらいのだが、それをこの男に気づかれてはならない。 大きな声では言えないが、かつては御門の「手」をつとめたこともある。自身の不調を隠すことなど、わけはない。 特務三課の「本当」の任務のときと大差ない気合いと根性と真剣さで、藍は夕餉の膳を空にしていった。 そして、その夜。 藍は自室に防御結界を張った。なにしろ相手は銀生である。昼間、ああ言って牽制したからといって、おとなしく独り寝するとは限らない。前回の「私的交渉」からしばらく間が空いているし、用心するに越したことはないと判断したのだ。 過去の例からして、寝入りばなを狙って一度ぐらいは誘いにくるかもしれないと警戒していたが、今回はその気配はまったくなかった。とりあえず、大丈夫か。そう結論づけて藍が眠りについたのは、日付の変わったころだった。 夢の中で、藍は縁側にいた。外の風景からすると、桐野の家らしい。軒に吊るされた干柿や大根。縁に並んだ欠き餅。遠くで子供たちの声がしている。 ああ、そろそろおやつの時間だな。碧に、ちゃんと手を洗うように言わなくては……。 そう思って立ち上がろうとしたとき。いきなり視界がぐにゃりと歪んだ。 「えっ……」 はっとして、藍は現(うつつ)に引き戻された。見慣れた部屋。夜中のはずなのに、妙に明るい。反射的に夜具から飛び出る。 「……なっ……なんですか、このありさまはっ!」 衣桁の前で小柄を構え、藍は叫んだ。 「だーって、仕方なかったんですよ〜」 その場の雰囲気に思いっきり不似合いな、のんびりとした声で返事をしたのは、藍の「対」で上司で同居人で情人でもある社銀生だった。 「藍さん、めちゃくちゃ強い結界張ってんですもん。つい力まかせに押し切ったら、ドアも一緒に吹っ飛んじゃって……」 そうなのだ。藍の部屋の扉は、見るも無惨に破壊されていた。よく見ると壁や床にもいくつか亀裂が走っている。 「ま、古い家ですしねー。今度の休みんときに、俺が修理しますよ。あ、それとも、いっそのこと部屋ごとリフォームします?」 たしかにこまごまと修繕するより、リフォームした方がよさそうだ。が、問題はそれではない。藍は小柄を構えたまま、低く問うた。 「……こんな時間に、なんのご用です」 「え、なにって、そんなの決まってるじゃないですか〜」 銀生はにこにこと言った。 「藍さんと『オトナの時間』を共有しようと思いまして」 「その件なら、さきほどお断りしたはずですが?」 「私的交渉」という言葉の意味がわからなかったとは言わせない。なんならもう一度、誤解しようのないぐらいはっきりきっぱり、そのものズバリと言ってやったっていいのだ。 「あー、そういえばそうでしたねー。でも、あれって条件付きだったでしょ」 銀生はさらに双眸を細めた。 「俺、条件クリアしましたもん」 「まさか……」 ばかな。 藍は銀生を睨んだ。見え透いた嘘をつくんじゃない。あのダンボールいっぱいの煎餅を、こんな短時間で消費できるわけがない。どうせどこかに捨てたか、術で移動させたに違いない。そう指摘すると、 「嫌ですねぇ、藍さん。確たる証拠もなしに人を嘘つき呼ばわりするなんて」 いかにも悲しそうに、頭を振る。 「愛する藍さんのために、俺、一生懸命食べたんですよ〜。まあ、さすがにキツかったですけど、『こだわりウォーカー・増刊号』に載ってた『大食い鉄人選手権』の優勝者のインタビューを思い出してがんばりました!」 また、わけのわからないことを。 大食い選手の談話なんて、一般人にはなんの参考にもならない。医学的に見て、その種の極端に大量の食物を摂取できる人間というのは、消化器官になんらかの異常の認められる場合が多いのだ。 「食べているあいだ、幽門を開けっぱなしにしておくというのは、理にかなってますよねえ。胃に食べ物が停滞することなく、次々に十二指腸から小腸に送られていくわけですから……」 「幽門?」 思わず声がひっくり返った。 幽門とは胃と十二指腸を繋ぐ器官である。当然ながら、個人の意志でどうこうできるようなものではない。それを、開けたままにしておくだと? 「はい〜。俺、以前任務中に必要に迫られて、術で仮死状態になったことあるんですよー。で、それの応用で体温とか心拍数とか血圧とか、術でいろいろ操作できるようになりまして」 化けものか、この男は。半ば本気で思う。 もっとも、銀生には何分の一か「昏」の血が流れている。底知れぬその「力」は、おのれの細胞のひとつひとつまで「視る」ことができるのかもしれない。 「そーゆーわけで、『一文字屋』の得々せんべいセットは完食しましたから」 パシッ、と空気が震え、藍の手から小柄が落とされた。 「藍さんも約束守ってくださいね」 「約束って……」 「もちろん、『オトナの時間』……じゃなくて『私的交渉』でしたっけ。ソレですよ」 ずい、と、銀生が迫ってきた。右の手が藍の肩を抱く。 「それとも藍さん、約束を破るつもりですか」 約束。そんなもの、した覚えはない。が、しかし。 あの折りの、自分の言葉を反芻する。この男が性懲りもなく「一文字屋」の煎餅を買い込んできたときの。 『責任をもって、これを全部消費してください』 『では、それまで私的交渉はお断りします』 ……………しまった。 一瞬にして、藍は自分の失策に気づいた。責任持って全部食え。それだけでよかったのに。 この男があまりにもすんなりと「了解しました」などと言ったものだから、つい念を押すつもりで余計なことまで口走ってしまった。あれでは、煎餅を食べさえすればオールオッケーととられても致し方ない。 「そんなこと、しませんよねえ、藍さん?」 こちらが否と言えないことを百も承知している、勝ち誇った声。 ぎりりと唇を噛みながら、藍は帯の結び目に伸びてくる手を容認した。 翌日。 軍務省情報部特務三課の課長と主任は、揃って無断欠勤したらしい。金髪の部下はこれ幸いと昼寝を決め込み、黒髪の部下は同僚のぶんまでデスクワークをこなしたという。 特務三課の複雑な日常は、まだまだ終わりそうにない。 おしまい。 |