愛?の炬燵  by近衛 遼




ACT1

「ふわーーーーーっ、もー、おなかいっぱい〜」
 大きく伸びをしながらそう言って、桐野碧はばたんと畳に寝転がった。
「もういいのか、碧。肉、まだ残ってるぞ」
 義兄である桐野藍は、あしらい鉢の極上霜降り肉を菜箸で摘まみながら言った。
「えーっ、もう入んないよー」
 あとから追加した二人前はさすがに多かったらしい。藍は肉や野菜を冷蔵庫に仕舞い、使った食器などを片づけはじめた。すき焼きに使った玉割り(小鉢)は、早めに洗わないと卵がこびりついて汚れが落ちにくいのだ。
 いつもならここで碧にも手伝わせるのだが、今日はまあいいだろう。なにしろ思い切り久しぶりの兄弟水入らず。邪魔者が二人ともいないなんて、こんな偶然、めったにあるもんじゃない。
 今日、昏は御影研究所からの要請で、単独の極秘任務に出かけている。本来なら「御影」と「水鏡」は二人で一人。一緒に行動しなければいけないのだが、今回は昏個人にオファーが来た。詳しいことはわからないが、これまでにも何度が似たような依頼はあったらしく、銀生は「まあ、ちゃっちゃと済ませてきなさいよねー」と昏ひとりを送り出し、自分は鬼塚たちに誘われて飲みに出かけてしまった。
 あしたは非番。きっと今夜は一晩中、遊んでくるだろう。鬼塚たちと飲みにいくと二次会三次会はあたりまえ、たいてい明け方までサバイバルレースのようにハシゴをするのが定番だった。
 こんなチャンスを逃す手はない。藍は帰り支度をする碧を、夕飯に誘った。
「え、ほんと? じゃあおれ、すき焼き食べたいっ」
 かわいい義弟のリクエストである。藍に否やのあろうはずもない。さっそく、ふだんだったら絶対買わないような高い肉を買い、「豆の屋」の「厳選・濃厚焼き豆腐」も買って、連れだって帰路についたのだった。
 洗い物も終わり、明日の朝食用の米もセットして部屋に戻ると、炬燵の上にみかんの皮や瓦せんべいの袋が丸めて置いてあった。満腹だと言っていたくせに、菓子や果物は入る場所が違うらしい。
 藍は小さくため息をつき、炬燵の向こうを覗き込んだ。碧はまだそこに横になっている。
「おい、碧。食うなとは言わないが、後片づけぐらいちゃんとしろ。みかんの皮は燃えるゴミ、せんべいの袋はプラごみだ。きちんと分別しないと……」
 小言を言いかけて、藍は思わず語を止めた。
 座蒲団を枕代わりに、碧がくうくうと寝息をたてている。炬燵に入っていると無性に眠くなることがあるが、食事のあとはとくにそうなのだろう。碧は頬をほんのりとピンクに染めて眠っていた。
 無防備な寝顔。それは藍の記憶にあるままだった。桐野の家で、一緒に暮らしていたころの。
 そっと手をのばし、やわらかく細い髪を撫でる。懐かしい感触が指先から伝わってきた。
『碧……』
「ただいま帰りましたぁー」
 すぐうしろで、間延びした声。藍は弾けたように身を翻した。
「あーららら、びっくりさせちゃいました?」
「ぎっ……銀生さん、どうして……」
「どーしてって言われても、ここは俺んちですもん。あ、もちろんいまは、藍さんちでもありますけど」
 のんびりとそう言う。
 いつ帰ってきたんだろう。いや、それよりも、なんでこんなに早いんだ。いつもならいまごろ、まだ二次会の真っ最中のはずなのに。
 疑問が顔に出たのか、銀生は事情を説明しはじめた。
「いやー、じつは錦織んとこの居候が事故って入院したらしくって。で、二次会途中でお開きになっちゃったんですよ〜」
 特務一課課長の錦織文麿は、都では有名な体術道場の師範で、何人かの内弟子を自宅に住まわせている。
「まあ、残りのメンバーで別んトコに繰り出してもよかったんですけどね」
 銀生はちろりと、炬燵に足を突っ込んで熟睡している碧に目を遣った。
「なんとなく、帰りたくなって。これって、もしかしてムシの知らせってやつでしょうかねえ」
「虫の知らせ?」
「藍さん、さっきイケナイこと考えてたでしょ」
「ばっ……ばかなこと言わないでくださいっ。なにを根拠に……」
「しーーーっ、碧が起きちゃいますよ」
 そうだった。あわてて、口を手でふさぐ。
「もー、ムキになっちゃって。ま、藍さんの気持ちもわからなくはないですよ。黙ってすわってれば絶世の美少年ですもんねえ、碧は。しゃべりだしたらトンデモナイ天然ですけど、そこもまたカワイイし」
 かわいいだと? この男が言うと、思い切り不穏だ。藍はなおもペラペラとどうでもいいような話を垂れ流している銀生に背を向け、碧を抱き起こした。
「あれえ、どうするんです?」
「奥に寝かせてきます。風邪をひいてはいけないので」
「あ、じゃあ俺、蒲団敷いてきますよ」
「もう敷いてあります」
「へーえ、用意がいいですねえ」
 にんまりと笑って、銀生。
「やっぱり、計画的……」
 やかましいっ!
 藍は反射的に、炬燵の上にあった瓦せんべいを小袋のごと銀生の口に突っ込んだ。
「ふががっ……はにふるんれふかーっ(なにするんですか)」
 勢いでせいべいが前歯にぶつかったらしい。なんとも情けない顔で抗議している。
 ふん。余計なことを言うからだ。藍は銀生をマル無視して、客間になっている座敷に碧を運んだ。衣服をゆるめて、夜具に横たえる。碧はなにやらムニャムニャと呟いて、ごろんと寝返りをうった。
 あいかわらず寝相が悪い。これはやはり、夜中に様子を見に来た方がいいかもな。昔からしょっちゅう蒲団を蹴飛ばして、腹をこわしたり鼻風邪をひいたりしていたことを思い出す。真冬でも畳の上まで転がっていくので、一時期は寝袋で寝かせていたほどだ。もっとも、それでもゴロゴロと移動して、夜中に寝袋に入ったまま障子に激突して桟を折ったりして、結局、有効な解決手段は見つからないまま現在に至っているのだが。
「藍さーん」
 しみじみと思い出に浸っていると、またしてもうしろから声がした。
「……なんです」
「俺たちの蒲団も敷いときましたよ〜。シーツもばっちり新しいのに替えましたし、そろそろオトナの時間にしません?」
 馬鹿野郎。なにが大人の時間だ。藍はぎろりと銀生をにらみつけた。
「しませんよ。少しは状況を考えてください」
「へ? 状況というと、たとえばどのような?」
 しらじらしく訊いてくる。
「碧がいるのに、そんなことできるわけないでしょう」
「え、だって藍さん、このあいだの約束だと、家事当番のない日で残業も持ち帰りの仕事もなくて、翌日に公式行事の入ってない日だったらいいって言ってたじゃないですかー。碧がいちゃダメなんて聞いてませんよ」
「言うまでもないでしょう! できないものは、できないんですっ」
 思わず声を荒げた。と、そのとき。
「そーだよぉー」
 絶妙のタイングで、碧の声。藍はぎくりと夜具の中を見遣った。
「できないよー、二重結界なんて〜」
 どうやら、最近取り組んでいる術の訓練の夢を見ているらしい。藍はほっとして立ち上がり、押入からもう一組の蒲団を取り出した。
「あれえ、なにやってんです?」
 銀生が首をかしげて訊ねた。
「ここで寝ます」
「はあ?」
「今日は、ここで寝ます」
 再度宣言して、碧の横に蒲団を敷いた。
「んもー、藍さんたらワガママなんだから」
 ぶつぶつと文句を言いながらも、銀生が引き上げていく。
 うるさい。わがままなのはどっちだ。そうそういつも、思い通りにはさせないぞ。
 襖をぴったり閉めて、明かりを小さくする。夜着に着替え、蒲団に入ろうとしたとき、ふたたび襖がからりと開いた。
「失礼しまーす」
 のほほんとした声とともに、蒲団を抱えた銀生が入ってきた。
「今度はなんですかっ」
「え、なにって、せっかく早く帰ってきたのに独り寝ってのは寂しいですから、俺もこっちで寝ようかなーと」
 にこやかに、銀生は言った。
「いやー、川の字で寝るなんて、何年ぶりですかねえ」
 川の字だと? 冗談じゃない。こんな破廉恥で好き者で倫理観の欠片もない男と碧をひとつ部屋に寝かせて、もしものことがあったらどうする。それぐらいなら、いまからでも大人の時間とやらに付き合った方がマシかも……いや、でも、碧のことだ。夜中に寝惚けて、厠と間違えて寝室の戸を開けたりするかもしれない。この男との関係は碧も承知しているが、あんな現場を見られるのは絶対に嫌だ。
 藍が究極の選択に頭を悩ませているあいだに、銀生はさっさと蒲団を敷き始めた。
「じゃ、おやすなさーい」
 言うが早いか、蒲団をかぶって横になる。ややあって、すうすうと規則正しい寝息が聞こえてきた。いつもながら寝つきがいい。もっとも、「完全に」眠っているかどうかはわからないが。
 右に碧、左に銀生。寝息の微妙な輪唱にはさまれて、藍はその夜、なかなか寝つけなかった。


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