冷えてゆく。
 握りしめた指先から、どんどん熱が失われてゆく。
 氷に近づく冷たさが、俺の体温まで奪って。




凍結   by(宰相 連改め)みなひ




ACT1

 窓に初雪が降りた日、遥がこの世を去った。
 遥は東洞院遥(ひがしのとういん よう)といい、俺の養育者だった。俺は物心ついたときから遥に育てられ、遥から術や森で生きるすべを学んだ。遥は白髪に茶眼の老人で、優れた術者でもあった。そして彼はいつも、おだやかに笑っていた。
 気まぐれにやってくる銀生はいたが、それ以外の日は遥と過ごした。二人しかいない静かな暮らしだったが、俺にとっては安らげる日々だった。
 しかし、その日々も長くは続かなかった。
『昏。聞いてください』
 死出の旅につく直前、遥は言った。消え入りそうな声で。
『人は、一人では生きてゆけません。あなたも・・・同じ』
 栗色の瞳が伝える。遥の想い。心の底から俺を案じてくれている。
『忘れないでください。“昏”も“人”なのです。あきらめては・・・・いけない』
 絞り出すように言い終え、遥は眠りについた。それが最後の言葉だった。俺は徐々に冷たくなってくる遥の手を取ったまま、銀生が来るのを待ち続けた。
「結構変わったじーさんだったけど、やっぱ年には勝てなかったね」
 半刻ほどして、遺体を引き取るために銀生が来た。苦笑しながら言う。俺には遥のどこが普通と変わっているのか分からなかったが、黙って銀生の話を聞いていた。
「ともかく。今日からお前も一人。気ままな一人暮らしだよん」
 言われた言葉に目を見張った。遥亡き後、自分は銀生と暮らすものだと思っていたから。奴は俺の監視者だ。自称保護者でもある。遥も二つの役割を兼ねていたから、今度は銀生が見張ると思っていた。
「ま、時々は様子見に来てやるから。それと、なんか足んないもんがあったら言ってねー」
 返事も足りないものも聞かずに、銀生は消えてしまった。俺は呆然とする。少しして、言いたいことを言っていなくなるのは奴の常だと諦めた。あたりを見回す。
 こうしてみると、広いな。
 目に映るものにぼんやりと感じた。遥と住む家はさほど大きくはない家だったが、妙に広く感じてしまった。抜け殻みたいにぽかりと空いた空間。俺は一人、座り込んでいた。
 これから、どうなるのだろうか。
 疑問と不安は次々と湧いてきた。俺は養育者を失った。銀生は監視のみするらしい。ならば。
 一人で、やっていくのか?
 知識として生活する術は頭にある。が、実行するには意欲がいった。遥の言葉を思いだす。
『人は、一人では生きてゆけません。あなたも・・・同じ』
 何度も頭で反芻した。遥はそう残して逝ってしまった。しかし、俺は一人。銀生も時々しか来ないと言う。
 たぶん・・・・そうなんだろうな。
 答えは諦めに近かった。俺は「昏」という一族の末裔で、一族は俺が赤子の時に滅んだという。俺と同じ血を持つ者はもう、銀生以外には存在しないらしい。
 俺は、「銀鬼」だものな。 
 他へいく余地なく結論が出てしまった。森の奥に隠れ住んでいるとはいえ、人々の思考は時折俺の頭に伝わってきた。流れ込む他人の思考たち。どれも一様に「銀鬼」を怖れていた。感じる恐怖と憎しみ。畏怖と蔑み。原因は一族が滅びる際に、都に出た「昏」の一人が人々に危害をなしたためだという。結果。「銀鬼」である俺の本来の姿は禁忌とされ、今は術で封じられている。
 一人で、生きるしかない。
 空っぽの部屋で思った。思考を止める。どうせ死ぬことはできない。生命に支障をきたす何かが起こった瞬間、あの男がやってくるのだ。あの、つかみ所のない男が。
 生きて、ゆける。
 自分に言い聞かせた。選択肢はない。感情を麻痺させて。深く考えないで。淡々と日々を送ればいいと思った。そして俺は、それを実行していった。


「あんた、ろくに食ってないでしょ」
 遥を失ってから半月後。通りを普通に歩いていたら、がしりと腕を掴まれた。驚きに顔を上げる。同じくらいの目線に、割腹のいい壮年の女が迫っていた。
「来なさい」
 何のことだと訊こうとしたら、ぐいと腕を引かれた。引きずっていかれる。何が起こっているかわからない。しかし女はぐいぐいと引っ張ってゆく。おそらく力では勝るだろう。それ以前に、自分は術も心を操る「能力」も持ち合わせている。だのに。向けられた視線の真摯さと、腕を掴む手の温かさが俺の抵抗を封じていた。
「入りな」
 しばらく歩いて、俺は小さな食堂に連れてこられた。古びた造りだが、清潔に保たれている空間。煮物のにおいが立ち籠める室内に入った時、温かい空気にすっぽり包まれた気がした。
「座って。ほら何してんの。場所なんてどこでもいいよ」
 ぼんやりと立っていたら、矢継ぎ早に急かされた。座らなければいけないらしい。どうして?何より、俺はどうして彼女に従っている?
「残り物しかないけど、食べないよりましだよ。ちょっと待ってな」
 女はそう言って奥に消えた。火を使う気配。少しずつ、ただよってくるにおい。魚を焼いてる?
「はい」
 しばらくして、ご飯と煮物と焼き魚が目の前に並んだ。加えて、具だくさんの味噌汁が置かれる。なんだろうと思った。湯気のたつ食べ物達。これを、どうしろと言うのか。
「食べな」
 声が投げられた。茫然とする。何故俺が食べなくてはいけないのだろう。どうしてこの女は、俺に食べ物を勧めるのか。
「早く食べな!わかってるのかい?食わなきゃ、死んじまうんだよ!」
 ついに食卓の前に仁王立ちされた。感じる威圧感。圧されながら表層意識を覗きこむ。食べなきゃ。この子に食べさせなきゃ。女の頭には、それしか見当たらなかった。
「食べなきゃ引っぱたくよ!」
 脅すように叫ばれ、箸をとった。腹は減っていない。だけど、食べなくてはいけないらしい。ちらりと目の前の食物に毒物が混入されている可能性も浮かんだが、おそるおそる煮物をつまんだ。
 温かいな。
 感じたのはそれしかなかった。味なんてどうかわからなかったし、もともと俺は食べ物の味には疎かった。いつも摂取している簡易栄養食には、味と言えるほどの味はなかったし。
「どうだい?」
 その問いに俺は答えなかった。どう答えたらいいのか。それでも煮物を口に運び続けた。食べたいわけではない。だけど、ただ温かいものが口から身体の奥に落ちてゆく。その熱を、もう少しだけ感じていたかった。
「ごちそう・・・・さま」
 黙々と食べ続けて、出された全部を平らげた俺は、手を合わせてぼそりと言った。
「おかわりは?」
 女が訊く。俺は首を振った。
「もういいのかい?あんた、あんまり食べないんだね」
 そう言いながら女は食器を片付けた。俺はポケットを探る。こういうときは、金がいるはずだ。だけど・・・・。
「いいよ」
 俺の様子を見て取ったのか、女が言った。
「あたしがあんたを勝手に連れてきて、残りもん食わせただけなんだから。お代はいらない」
 戸惑う俺を立たせ、女は言った。
「顔色ましになったよ。じゃあね。家におかえり」
 背中を押され、食堂の外に出された。女には受け取る意志がない。俺も渡す金がない。しかたなく俺は家へと歩きだした。しばらく行って、ふと後ろを振り返る。女はまだ見ていた。俺は食わせてもらった事実を思いだし、ぺこりと頭を下げた。