桐野理事長の優雅な午後
〜御影学園日記・番外篇〜       by 近衛 遼




 さわさわとした風が色づいた木々のあいだを抜けていく。空の色は薄い群青。雲ひとつない秋晴れだ。
 私立御影学園の理事長、桐野篝は、ほんの少しブランデーを垂らした紅茶を口に運んだ。
「すみませんねえ、理事長。まーた実験機材ぶっ壊しちゃって」
 御影学園高等部の化学教師、社銀生は、これっぽっちも申し訳ないとは思っていない口調で、そう言った。
「今週の授業には間に合いそうにないですけど、速攻で納品するよう業者に言っときましたから、実験は来週に延期するということで……」
「授業のスケジュールは、社先生におまかせします」
 篝はティーカップを受け皿に戻した。
「それより、あまりに備品や設備の損壊が多いと、PTAから苦情が来るかもしれません。そのあたりの対応は、よろしくお願いしますよ」
「えーっ、俺、厚化粧のオバサンとか苦虫噛み潰したオジサンに頭下げるのイヤですよ〜」
 きちんと弁償しているのだから、いいじゃないかと思う。じつのところ、実害以上の賠償金を払っているので、これまでPTAから追求されたことはない。
「とりあえず、次から個人的な実験は平日ではなく土日祝日、あるいは長期休暇のときにするようにしてください」
 篝の言葉に、銀生は右手を肩の高さに挙げた。
「はい。誓います」
 芝居がかった態度に、篝はため息をついた。
「あいかわらずですね。藍と寝食をともにすれば、少しは変わるかと思っていたのですが」
「あれえ、そうですか? 俺、すっごく変わったと思うんですけど」
 なにしろ、毎日楽しくて仕方ない。こっちがなにかするたびに、びしばし反応が返ってくるのだ。もちろん夜のあれこれも。
 例の誓約書のせいで、たまにしかできないが、そのときはもう……………。
「社先生」
 妄想の坩堝に飲み込まれそうになったとき、篝の冷ややかな声が聞こえた。
「見苦しいですよ」
 ぴしりと言われた。
「あ、すみません」
 じつは、こういうのは嫌いじゃない。言葉の鞭が快感を呼び起こす。自分にはどうやら、そういう性癖があるらしい。
「それにしても、うまくやりましたね」
 二杯目の紅茶を注ぎながら、篝は言った。
「一歩間違えば、いまごろ路頭に迷っていたでしょうに」
 もし、藍が告訴していたら。
「あー、そうですねー。でも、理事長のおかげで告訴されずに済みましたし」
 藍に告訴を勧めたのは篝だが、その実、そんなことをされてはかなわないと思っていたはずだ。事が公になれば、学園の名に疵がつく。
「……社先生」
 篝はティーカップをテーブルに置いた。
「はい?」
「思い違いをされては困ります」
「思い違いって……」
「藍が告訴の手続きを取っていたら、私はあなたを免職にするつもりでした」
 篝はうっすらと微笑んだ。
「当然でしょう。いかに優秀な教師だとしても、他人の人格を無視して横暴なふるまいをするような者は、わが校には不要です」
「あー、えーと、でも……」
「藍もまだまだ甘いですね。自分は血を流さずに、相手だけを断罪しようなんて。そんなことをしているから、足元をすくわれるるんです。あのとき、藍が対面も外聞もかなぐり捨てる覚悟を見せていたら、私は迷うことなく社銀生という人間を抹殺していたでしょう。たぶん、日本にはいられなくなるぐらいに」
 それだけの力が、自分にはある。その自負の上に出た言葉。
 あー、やばかったねえ。首の皮一枚で命拾いしたってカンジ?
 まあ、日本じゃなくても、どこででも暮らしてはいけるけど、あのヒトと離されるのはちょっとツライかも。
 篝はふたたびティーカップを手にした。香り高いティー・ロワイヤル。ゆっくりとそれを飲む。
「念のため、言っておきますが」
「……はい」
「二度目は、ないですよ」
 仏の顔も三度まで、と言う。が、篝には一度しかないらしい。銀生は大きく息を吸い、
「承知しました」
 今度は、きっちりと三十度の礼をした。


 高い空に、薄い雲が出ていた。刷毛で散らしたようなそれは、少しずつ形を変えていく。
 事務局の前まで来て、銀生は中を覗いてみた。藍はまだ仕事中だった。眉間にしわを寄せて、書類を睨み付けている。
 こりゃ今日は、残業かもねえ。食事当番は藍だが、まともな夕食にはありつけそうにない。もちろん、そのあとも。
 仕方ない。なにか食べて帰ろう。もちろん、もしあの人が夕飯を作ってくれたときのことを考えて、腹六分目ぐらいにしておかなくてはいけないけれど。
 こうして、夕刻。銀生はショットバー「ギムレット」へと向かった。


(了)

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