笑わずの姫の要塞
〜御影学園日記・番外篇2〜       by 近衛 遼




 あの人は笑わない。俺の前では、決して。
 笑みを浮かべることはあっても、それはまったく違う意味を持っている。
 昔々の中国で、「笑わずの姫」と称された絶世の美女がいたという。王は彼女を后とし、なんとか笑わそうと様々な贈り物をしたり伎芸を見せたりしたが、一向に笑わない。あるとき、手違いで敵襲を告げる狼煙(のろし)が上がり、挙兵の準備に大わらわになった城内の様子を見て、その后がはじめて声を上げて笑った。王は后の笑顔が見たいがために、度々、偽の狼煙を上げるようになった。その結果。
 本当に敵軍が攻めてきたときには、だれもそれを信じず、国は滅んだ。
 傾国の美女。でもまあ、それは無能な為政者が自分の責任を転嫁するために作った、まやかしである場合もあるけれど。
 笑わずの姫。
 あの人が俺の前で、心から笑うことがあるとしたら。それはきっと俺の棺の前でだろう。


「なにニヤついてんだよ、銀生」
 昼休み。機嫌よく弁当の蓋を開けた銀生の横で、野太い声がした。体育教師の榊剛だ。食堂の持ち帰り用弁当(中身はサービス定食と同じ)とインスタント味噌汁を手にしている。
「なにって、今日は愛妻弁当なのよー。うらやましいでしょ」
 ふだん、藍は弁当を作らないが、ダメ元で頼んでみたら作ってくれたのだ。
「へーえ、愛妻弁当ねえ。どこがだよ」
 ちらりと見遣って、剛。
「全部、冷凍食品じゃねえか」
「へっ?」
 そういえば、妙に形の揃った煮物に揚げ物。卵焼きには焦げめのひとつもついてない。
「それだったら、こっちの方がよっぽどいいぜ」
 剛は、たったいま食堂で買ってきたらしい弁当を見せびらかした。御影学園の食堂で腕を振るっているのは藤という名の中年女性で、数年前までは商店街で食堂を切り盛りしていたらしい。当然ながら料理の腕は折り紙つきで、学生たちからも教職員からも人気があった。
「こう言っちゃなんだが、あのカタブツのどこがよかったのかねえ」
 藍が知ったら卒倒するだろうが、じつは自分たちのことは公然のヒミツになっている。
「俺なら絶対、手ぇ出さねえぞ」
 出されてたまるかよ。銀生はちろりと同僚をにらんだ。
「ふーんだ。藍さんの良さは俺にしかわかんないのよ」
「手ヌキ弁当持たされたくせに」
「なによー。冷凍食品だろーがレトルトだろーが、藍さんが俺のために作ってくれたんだからいいもんね〜」
「哀れだねぇ。そこいくと、水木はわが世の春だな」
 ここだけの話……といっても、これもじつは周知の事実なのだが(知らぬは藍ばかりなり。汗)、水木と斎はすでに「いい仲」になっている。
「あーら、社センセ。なーんか、みすぼらしいお弁当ねえ」
 タイムリーに、英語教師の如月水木がやってきた。
「トクベツにアタシのを分けてあげましょうか?」
 二段重ねの弁当箱を手に、これみよがしに言う。
「いらないよーだ。斎センセの料理なら、週に一度は食べてるし」
 斎はいまでも、週末には桐野の家に重箱を届けている。たいてい三十分ほどで帰っていくが、藍はそのときに碧の様子を聞くのを楽しみにしているようだった。
「このあいだ、寮の中で賭け事をやったらしくて、さすがにそれには、おれも怒りました。もっとも、金銭を賭けたのではなくて、宿題や掃除の肩代わりを一週間分とかだったらしいんですが」
 真面目な顔で言う斎。それをまた、真剣に聞いている藍。
 いいねえ。そういう顔、こっちにも見せてほしいもんだけど。
 ごくたまに、焼け付くほど鋭利な「気」を感じることはある。それはそれで、体の芯がぞくぞくするほどうれしい。その「気」に切り刻まれて、ふたりで血まみれになってしまいたいと思う。
 結局のところ、自分にはそういうのが似合いなんだろう。
 笑顔ではなく、憎悪。思い遣りではなく、拒絶。それでもなお、自分に関わり続ける存在を欲しているのだ。
 本当はもっと、あんたを壊せると思っていた。怒りと悔しさと憎しみで、なにも見えなくなるまで。けど、ちょっとムリだったみたいだねえ。
 人間てのは、本当に面白い。こんな面白い生き物、ちょっといないよ。


 この人は笑わない。たとえ唇に笑みが浮かんでいたとしても。
「……なんですか?」
 ベッドの上。訝しげに藍が訊いた。
「言いたいことがあるなら、はっきり言ってください。気になります」
 はいはい。わかりましたよ。
「大好きですよ、藍さん」
「そうですか。それがなにか?」
 冷ややかな笑み。その唇に口付ける。
「いいえ、べつに。言いたかっただけです」
「時間の無駄ですね」
「愛の言葉に、無駄なものなんてありませんよ」
 その台詞は、完全に無視された。いつものように事が進んでいく。
 「笑わずの姫」の要塞は、今夜も陥落することはなさそうだった。

 いいですよ、藍さん。
 俺はあんたの笑顔が見たいんじゃない。俺はそこまで愚かじゃない。俺が見たいのは……。

 晩秋の夜は、深く静かに更けていった。

(了)